今この目の前の現場に全身全霊で対峙する

『遠野物語』森山大道(光文社文庫)

日本を代表するカメラマン、路地裏を描写した森山大道氏、私にとっては、寺山修司の小説「あゝ、荒野」とのコラボレーション写真が鮮烈なイメージを放つカメラマンです。彼による写真集「遠野物語」を開いてみるとそこにはモノクロームの農村風景が連なるものの、所謂、柳田国男の「遠野物語」でお馴染みのここが異界への入口なのかといった場所を特定して見ることができない。寧ろ、そこが何処と場所を特定できないようなうらぶれた農村風景が見えてくるといってもいい。だから、ある意味でそんなたいそうに「遠野物語」などとタイトルをつけなくてもいいんじゃないかと思えなくもない。

何故、森山氏は遠野を撮ったんだろう?その写真集にはエッセイ風の森山の文章が掲載されていて、それによると彼にとって故郷=遠野というイメージが強くあったようなのだ。彼は子供時代、転校生として各地を転々としたため、故郷と呼べる土地がないという(私もそう)。だから森山氏にとって観念的な故郷として遠野という土地があるというのだ。それはとりもなおさず「平地人を戦慄せしめよ」と書いた柳田国男の「遠野物語」が提示した影響が森山のどこかに強くあるのだろう。

しかし森氏山にとって遠野は妖怪らが住まう民俗学的な伝承の異郷ではなく、そこに人が住んで生活を営んでいる場所として興味の矛先はむけられる。だから、写真にはジュースの自動販売機やポルノ映画のポスターなどもおさまっている。森山氏はエッセイによると下準備はなにもしないで、遠野に向かっそうで、電車から身を乗り出して風景を撮るところから始まり、旅館の部屋から街の様子まであらゆるものにカメラを向けたとある。

そしていかにも遠野を撮りましたというイラストレーション(この場合作意的に撮るということか)を排除したそうだ。素の彼が遠野の地に立って感じたものを撮る。カメラを向けたところが、彼にとっての現場になる。紙面には森山氏が撮影したその年その月の、遠野の地に住む人からみれば山の向こうからやってきたアーティストの視線。フィルターを通した遠野の空気感を切り取るカメラマンの視線・・・。

<森山大道・語録>

僕は僕がカメラを持って立っている場所こそが、すなわち僕にとって抜きさしならぬ現場であり、写真のすべてである、ということなんですね。それは言い換えると、たとえどんあ予備知識やイメージを持っていようと、それらは必ず現場によって簡単にくつがえされるという考え方です。だから、方法論とか原点らしきものをもし仮に僕が求めるとしたら、それはすべて現場であり、現場からなんです。そういう意味で僕はまるで、捜査一課の刑事のように現場至上主義者なのかもしれません。”

〝僕は、あちら側に住んでいるそれらのものものの世界を「もうひとつの国」と言っているんです。つまり写真は、カメラマンはこちら側に属するものと、あちら側に属するものとのちょうど真ん中に介在しているんです。だから僕が写真を撮る場所は、原景と現景と幻影とが混然と錯綜した場所なんですね。”

〝だから僕が現場と言うのは、たんに目の前にある場所ということではないのです。”

※以上、「遠野物語」森山大道から引用

遠野物語 (光文社文庫)

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