記憶は自在に書き換えられる「スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする」

映画「スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする」(2002年)
■監督:デヴィッド・クローネンバーバーグ
■出演:レイフ・ファインズ、ミランダ・リチャードソン
この作品は、その展開から異様性を放っています。スパーダ―とよばれる人物は精神の病気で社会復帰のための宿泊施設にやってきます。このスパイダーという人物、シャツを何枚も重ねてきている。見ていてだんだんと思ってくるのは、シャツの役割が自我の防御の壁なのかもしれないと思えてくる。
彼は少年期の記憶と共に生きている。だがその記憶というのは、確かな事実の記憶なのか、あるいは、創造の産物としての記憶なのか、非常にあいまい性を含んでいる。確かに、記憶というものは、自身の都合の良いように書き換えられる性質がある、特にそれが自分の罪や痛みが伴うとき、別の形に書き換えてしまうということはある話だ。
クローネンバーグのこの映画は、そうした領域に踏み込んだ作品で、人の記憶がいかに不確かなもので、それによって形成される自己像がいかに脆いかを認識させるに十分な作品だ。
記憶と現在が同じ空間に重なって描かれ、記憶の風景に現在のスパーダ―が一緒にいる。ミランダ・リチャードソンが母親、娼婦といった複数の人物を演じることで演じることで、過去の出来事が混乱し、創造しているのではないかということを想起させるのを視覚的に示した演出が秀逸。その彼女が娼婦を演じたとき、少年の父親と橋の下で情事をはじめる。手淫で精子を放出し、手についた精子を画面に向かってパッと振り払う。構成上、見ているものに精子がかかるという構図だ。おもしろいと思った。
この映画は、一貫して、主人公のスパイダーの心の世界を描いた映画と言える。その記憶をベースにノートに書きつける。さらにそのノートはわからないように部屋の絨毯の下に隠して後生大事にしている。心的世界を描いたという点では「裸のランチ」」に通じるものがある。クローネンバーグの作家性を感じた作品です。