ちょっとした日常に精神の風穴をあける「あやしい絵」

「あやしい絵」展 ( 東京国立近代美術館 )

撮影が許可されていました。以下の写真も同様です。

東京国立近代美術館で開催中の「あやしい絵」展(5月16日まで)、気になっていたので見に行きました。幕末から明治、大正にかけて日本美術に登場したちょっと不思議な感じがする、あやしげなにおいがプンプンする美術作品たち。よくこのような展覧会のタイトルを付けたなと思うのですが、美術という斜に構えた感じで、わかる人にわかればいいというような、そして難しく難解なだけのタイトルよりは、この展覧会のように一般人も直感的にわかるようなものがいいと思いました。その方が興味をもって美術館に行くのに違いない。美術は見られるための作品として、創られて他者に見られて感じてもらって、なんぼのはずと思うのです。

ところでその「あやしい」とは?「あやしい絵」展のカタログに寄稿され、主任研究員・中村麗子氏によると「幕末から昭和初期の退廃的、妖艶、奇怪、神秘的、不可思議といった要素をもつ、単に美しいだけではないものたち。どれも一度見たら心の中になぜかいつまでも引っかかる。」とあります。この一度見たら心の中にいつまでも引っかかるというのがミソなんだと思います。この引っかかるという部分が、大切でなぜ引っかかるのか?と言えば、そこに自分の無意識な暗部を投影しているから。人は清く正しく美しくというだけでは生きていない生き物。ある意味で自分自身を見ているということにつながると思います。

そしてもう一人、同じくカタログに寄稿されている弥生美術館学芸員の中村圭子氏は「尋常でないもの、異常なものを内包し、しかも、その尋常でないものに負の要素が含まれている絵である。例えば、病、死、破滅、狂気、恐怖、衰退、不安、タブーなどであろう。そしてそこにセクシャルな要素が加わることで、作品は強い牽引力をもち、人を惹きつけるようになる。」この場合さらに突っ込んで、尋常でないものに負の要素が含まれているということか。その負の要素とは現実世界ではできれば避けたいもの、遭遇したくないもの、降りかかってほしくないものとなる。それは自分自身の存在の基盤、アイデンティティを揺るがすものだから。

ただ面白いのが、そこにセクシャルな要素が加わると、さらに牽引力を持つということ。負の要素は死のイメージであるとしたら、セクシャルな要素は、性であり生へとつながるもの。この両刃の刃こそが作品にさらにパワーを生み出していく。たしかに、諸々の絵をみているとそうした要素を持っている作品は惹きつけられるものが多い。たとえば、チベット密教の宗教画をみていても生と性と死、そして聖と俗が混然一体化しているものもあり、それを抜きには人間存在を考えることができないと思考は飛躍したりして・・・。

面白いことにこの「怪しい絵」に選ばれた数々の作品のほとんどが女性を描いているということ。その理由としてカタログのコラムでは、①日本における「美人画」の系譜 ②西洋の「宿命の女」像の流入 ③画の主題となる物語での女性の立場 ④マスメディアがつくる女性像 を挙げている。こうした視点はカタログにもあるように男性優位社会の歴史性の中において考慮されたものですが、しかし、巫女に代表されるように肌で感じる、五感で感じる、直感で感じるのがすぐれているのは女性。どこかで女性にはかなわないと感じている男性の無意識の表出なのだと思う。

「あやしい絵」展はいろいろ考えさせてくれるきっかけだったような気がします。

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