カフカ「掟の門」を読む~掟破りのサソリ固め?~
カフカの短編小説「掟の門」は、同じく長編小説の「審判」の「大聖堂にて」にも組み込まれている話です。掟ときくと、その昔、プロレスの藤波対長州の抗争で、藤波が長州の得意技・サソリ固めをかけると、実況の古館アナウンサーが「掟破りの、藤波のサソリ固めだ」と叫んでいたのを思い出す。「掟」という言葉は、日常ではほとんど使わない、古館アナウンサーが使用していたのは、戦う相手の必殺技を使用しないという「ある集団の暗黙のルール」的な意味合いがあったのだと思う。
この短編小説は、ときに「法の前で」と訳されることもある。カフカが使ったドイツ語のGesetz(ゲゼッツ)の言葉には、法律の意味の他、法則的な意味あいもあるそうで、「定められたもの」という語意を持つため、最初に「掟」と翻訳されて、それがずっと採用されているということのようなのだ。
そこで、現代哲学事典(講談社現代新書)で、「掟」は出てこないので、「法」を調べてみると、『広義な法の概念には、法律、命令および禁令に加えて、道徳や慣習まで含まれる。』とある。さらにそれは、『個人的・主観的・内面的・非強制的なものである』と。その理由として『道徳的経験は本質的にはあくまでも個人の事柄であって、必ずしも社会を前提とせず、また自由と自発性こそが道徳に独自の属性であるからである。』とあった。
藤波の「掟破りのサソリ固め」は、リングの中の戦いという枠組みのなかで、非強制的で、自由と自発性の夢を背負って、憧れ、わかっていても、できない観客の日常を束の間に打破してみせる非日常化のプロレス劇場における「掟破り」だったのだ。
しかし、カフカの小説において、こうしたことが微妙にズレているように感じるのだ。掟の門に、田舎から来た男が、入ろうとすると門番がいて入れない。門は空いており行こうとすれば行けなくはないのに、門番は門番のルールで入ることを許可しない。男は男で門番の許可が出るのをずっと待ち続ける。男は延々に待ち続け、年老いて命の火も消えかかりそうになる。それは『個人的・主観的・内面的・非強制的なもの』であり、門番も、男も『あくまでも個人の事柄』であるからだ。
記号には、記号表現と記号内容が対になり、それがなにを意味しているのかが、わかるのだが、カフカの小説には、時に、キーとなる言葉の、記号内容が空っぽなのである。古館アナウンサーは「掟」の記号内容が明白だからこそ、放送が成立し一世を風靡した。しかし、カフカの小説において、門番も、死をむかえるまで待ち続ける男も、「掟」の意味内容が、空洞になっているように感じられる。無意味の世界に陥っているようなのだ。それは、暗闇の墓場にボンヤリ白いものが横ぎったとき、記号内容が何を指しているのかわからず、ドキッと恐怖を覚えるのに似ている。空虚であり、混沌、恐怖であり、死後どうなるのか記号内容が、やはり、わからない死の世界と言えないだろうか? だから門番は男に、『この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。門をしめるぞ』と言い。男は掟の門の前で死を迎えるのだった・・・掟は人の心の中にあるの・・・か?