インターゾーンへ、ようこそ映画「裸のランチ」

映画「裸のランチ」(1991年)

■監督: デヴィッド・クローネンバーグ
■出演:ピーター・ウエラ―、ジュディ。デイビス、イアン・ホルム、他

異色の映画を作り続けるデヴィッド・クローネンバーグ監督、なかでも1991年に製作された『裸のランチ』は難解な作品。ウィリアム・バロウズの小説を原作とした、幻覚と現実が交錯する異色の映像作品です。バロウズの小説は「映画化不可能」とも言われていましたが、クローネンバーグは、それを独自の世界観を構築した。

主人公ウイリアム・リーは、害虫駆除業者でありながらドラッグ中毒に陥り、幻覚の中で妻をウィリアム・テルごっこで誤って射殺してしまう。これがバロウズの人生と重なるわけですが、その後、謎の地「インターゾーン」へ逃亡し、このインターゾーンも現実なのか幻想なのかが、わからない。しゃべる昆虫の形をした異様なタイプライターや、そのキーボードの後ろが、肛門が口になっているしゃべる肛門のおぞましさ。さらには、ドラッグに害虫駆除剤やムカデの粉末を使用したり、胸に針を刺したりと、見ていて頭がくらくらしそうな映画です。

コカインの静脈注射をやったことがあるかね?あの効果はもろに頭へきて、純粋快楽の回路を刺激する。モルヒネの快感は内臓にくる。注射の後、自分の身体の内部に耳をすますような感じだ。しかし、コカインは頭の中を電気のように駆けまわる。コカインの渇望は頭だけの渇望で、肉体や感情のない欲求だ。(「裸のランチ」ウィリアム・S・バロウズ、鮎川信夫・訳/山形浩生・改訂●河出文庫より)

この映画に対しては、公開当時劇場で見てさっぱりわけがわからず、なんじゃ、これ?のイメージが残りました。当然、見る側としては時間軸でストーリーを無意識におっかるわけですが、妻の射殺場面が二度出てきたりと、展開がつかめない。インターゾーン?なにそれ?となってしまうわけです。しかし、なぜかこの映画、心に残っているんです。

数十年後、この映画は最初からドラックでラリっている幻覚そのものなんだと見ると最初ほどの違和感がありませんでした。むしろ、手に汗握るとか、ヒヤヒヤしたとか、そういった一般的な映画的なものは、最初からない。幻覚だから・・・。ドラッグ効果により、前後時間が入り乱れている。普通の精神状態では辿りつけないような場所にさまよいこんでいる。無機物が有機物に見えてくる。だからタイプライターが肛門が口になった昆虫と合体した異様なものに見えてくる。クローネンバーグが傾倒し尊敬するバロウズの難解なドラッグ小説を、そのまま映像化するのではなくクローネンバーグ流の切り口、大いなる実験精神で、映像化したんだと見ていくと、意外に引き込まれていくんですね。そして意外としょせん幻覚だからと片づけづに、丁寧に作っているなと思えてくる。

クローネンバーグは「バロウズと僕を混ぜあわせたようなものだろうね。僕ら2人がいっしょに「ザ・フライ」のテレポッドに入れられた、もう一方のテレポッドから、それぞれ別々には存在することができないクリーチャーとして出てくるようなものだ」と発言している。(1992年キネマ旬報5月下旬号・小林雅明の記事より)

細胞的表現の完全形は、最終結論としては癌である。デモクラシーは癌性で、官僚体がその癌だ。官僚体は国家のどこにでも根をおろし、麻薬局のように悪性のものになり、たえず同種を増幅させてどんどん生長し、ついには、抑制するか除去するかしかないかぎり、宿主である国家の息の根をとめることになる。官僚体は純粋の寄生的有機体なので、宿主がなければ生きのこることはできない。(「裸のランチ」ウィリアム・S・バロウズ、鮎川信夫・訳/山形浩生・改訂 ●河出文庫 より)

現実と幻覚が複雑に入り交ざっている錯綜したものをフィルムにおさめたこの「裸のランチ」は、おなじく幻覚が交錯し、すごい映画と評価している「ヴィデオ・ドローム」と双璧をなすクローネンバーグの代表作じゃないかと私には思えてきます。

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