死と暴力とエロスの「魔界転生」

山田風太郎の「魔界転生」を読みました。同じ著者の「八犬伝」を読み、興味を持っし、私の世代では映画にもなったなあと記憶があるので、タイトル自体馴染みがあるのです。

その「魔界転生」ですが、時代劇SFエンターテイメントといった感じで楽しく読めました。天草四郎、荒木又右衛門、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、柳生如雲斎、柳生宗矩(むねのり)、宮本武蔵といった、名だたる剣豪が蘇り、柳生十兵衛と対決するもので、荒唐無稽な話のですが、主人公の柳生十兵衛が紀州の徳川頼宣(よりのぶ)のもとへ乗り込む場面が、活字を目で追っているだけなのに、あまりにカッコよすぎて、そこからグイグイ引き込まれたのです。小説でこの感覚は、なかなか味わえません。正直、この小説は、柳生十兵衛のために書かれたんじゃないかと思えるほどに十兵衛像は魅力的でした。

しかし、なぜ死んだ人間が蘇るのか、その原理は?は、となると蘇生の条件として、「死期迫ってなお超絶の気力体力を持ちながら、おのれの人生に歯がみするほどの悔いと不満を抱いておる人物、もうひとつ別の人生を送りたかったと熱願しておる人物でなければならぬ。」そして、転生を望む人物が恋慕した女性と交わらなければならない。女性は転生ための母胎となり、1ヶ月後、その女性から生まれでる。こうした一連には、森宗意軒(もりそういけん)という影で操る人物の指が必要で、まるで衣を脱ぎ捨てるように母胎の女性から転生し、女性はそのまま命を落としてしまうのです。

ちなみに、魔界転生で影で糸引く、森宗意軒(もりそういけん)は、島原の乱に加わった、実在の人物で、当時としては海外渡航の経験もある知識も豊富な人物のため、妖術を使うキャラクターとして他の作品にも、登場することがあるみたいで、こうした作品には重要な要素になっています。

この魔界転生なる死者蘇生の術は、森宗意軒(もりそういけん)が編み出した西洋魔術と忍法を混合させた秘術なわけですが、そのプロセスが書かれているだけで、はっきりと、なぜ蘇るのかという原理は、明記はされていませんでした。忍法魔界転生だ!とあるのですが、これは人智を超えた魔法、妖術の世界であり、オカルトの世界です。現実にはありえない、SFエンターテイメントと言ったのは、そのためです。

それに対して、山田風太郎は、忍法に理屈なんかないんだよ、しのごの言わず、名だたる剣豪が蘇り、  徳川頼宣(よりのぶ)が幕府転覆を狙い、柳生十兵衛と魔界衆との戦いを楽しめばいいんだよと言わんばかりです。確かに、面白いんです。

戦うことがなかった剣豪がもし戦わば、どちらが強いのか?剣豪最強説は?こうしたロマンは格闘の世界では、ある話ですね。それを「魔界転生」は、題材にしちゃっているので、より面白さが際立つわけです。柳生親子対決、柳生十兵衛VS宮本武蔵などなど。それもうまく両者の顔が立つように描かれている。

転生した彼らは、死者であり、通常の世界に生きるものたちではない。魔界に生きている。ゆえに、魔界の剣豪たちは、生前のストイックさを捨て、色と殺戮の欲望の虜になっていて、やりたい放題ときている。死と暴力とエロスが魔界転生には、色濃く流れているのです。

こうしたアナーキーな要素を持っている「魔界転生」は、クリエイティブな人達を大いに刺激するようで、漫画化されたり、映画化されたりしています。まずは、原作に忠実に漫画化した、せがわまさき、の 『十 〜忍法魔界転生〜』です。この漫画家は、他にも山田風太郎の小説を漫画化しているので、よほど山田風太郎に心酔しているのだなと思わされます。原作が偉大であれば、その漫画化も大変な仕事になると思います。文字から想起されるイメージを絵にするわけですから。せがわまさき、の漫画化は原作の持つ、もうひとつの魅力であるエロティシズムの世界を損なわずに剣豪達の妖怪性を強調し、漫画ゆえにできる魅力ある作品に仕上げています。

そしてもうひとつが、石川賢の「魔界転生」。こちらは原作の枠を飛び越えて自由な展開を見せています。魔界転生衆は、アメリカのホラー映画のクリーチャーの影響を受けているのか、魔界衆がグロテスクな表現なっていて気持ち悪いのと、光と闇の対立は、どこか永井豪「デビルマン」とあい通じるのがあるように感じました。

しかし「魔界転生」と言えば、私の世代では映画です。カドカワ映画と呼ばれたメディアミックス戦略でエンターテイメント作品を量産した作品群の一つです。深作欣二が監督し、天草四郎を沢田研二が、柳生十兵衛を千葉真一が演じました。この映画ですが

、映画という枠組みに合わせるためか、かなり改変しており、山田風太郎の原作とは、かなりかけ離れています。この作品では森そういけんは姿を消し、天草四郎が蘇りの術を使います。島原の乱の怨念がそうさせたわけですが、神道・仏教からみた、キリシタンとしての異教性が、そのようなキャラクターにぴったりだったのでしょう。演じる沢田研二が、怪演していました。柳生十兵衛の千葉真一も、はまり役だった。さらに妖艶性を醸し出したのが、原作にはない細川ガラシャを演じた佳那晃子です。彼女の存在、演技がエロティシズムの要素が加わり映画の魅力をパワーアップさせています。

そして2003年に平山秀幸監督、天草四郎を窪塚洋介、柳生十兵衛を佐藤浩市の主演で再映画化されています。こちらも天草四郎によって魔界衆が蘇る設定で、深作版魔界転生の細川ガラシャは姿を消し麻生久美子演じるクララお品が配役された。深作版と比べるとキャラクターの弱さが目立ち、演出もインパクトに欠け、役者が活かされていない印象を私は受けました。昭和のスターは個性が強かった。

この 「魔界転生」、調べると、演劇になったり、ゲーム、アニメにもなっているのがわかる。そして、それらの作品はいずれも独自の設定を加えて、山田風太郎の原作を作り変えている。魔界転生のテーマは、先に述べたが、クリエイティブの感性を刺激するのだろう。その異様な設定もさながら、タイトルも抜群にいいのだ。当初のタイトル、「おぼろ忍法帖」のままだったら、きっと、こうも後世に影響を与えなかったに違いないだろう。エンターテイメントはタイトルから始まっているのだ。

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