1200年続く霊場・恐山は器であるということ

「恐山」南直哉(新潮新書)

著者の南直哉氏は恐山の住職代理の立場にあったというので、ずばりそこにいたということ。つまり、私のように、ちょっと観光がてら恐山に行ってみてここはすごい場所と騒ぐような低レベルではなく、恐山という存在そのものを骨の髄までよく知っているということ。

それも仏教の僧侶であり、永平寺で何年もの間、修行を積んだという筋金入りの方であります。そんな方が恐山についてどんなことを書いているのか、はなかなか興味深いと思います。

南氏によると、恐山には世間的イメージから幽霊のようなものが、出るのか?出ないのか?という問いにはあっさりと出ませんと言います。しかし、死者は存在するのだとも。それは死を看取った側の心の中に確かに存在しているのであり、それは霊とかというものの比ではないというのです。

恐山には死を弔う人々がひっきりなしに訪れ、南氏はそうした悲しみを抱えた巡礼者を長く相手してきた方。だからその言葉にはリアリティがあり、なるほどと思える部分も多々あります。

ちなみに死者と口寄せするイタコさんですが、恐山とは全く関係ないそうで、契約や介入などはしていない。彼女達は個人事業主として、恐山という場所で霊媒行為をしているそうです。なので、連絡先や名前など全然知らないと。しかしイタコ目当てで来る人が多いので、自然と巡礼者との会話が生まれてくる。そこで南氏の恐山とは?という問いが始まっていったそうです。

へーっ、そうだったんだと思うとともに曹洞宗の管轄下にある恐山は、場所的にはピッタリくるけれど、禅とはしっくりこないような感じがします。曹洞宗の懐の深さなのかな、でも、恐山への問い合わせにはイタコに関することが多いと思うのですが。そのイメージがあまりに強いので。

恐山は1200年もの間、霊場として死者への想いを預けていった場所である。死と向き合ってしまった人間の感情や想いを放出する場所であり、恐山は器であると南氏はいいます。そこには仏教も神道も関係ない。一瞬戸惑いのような、仏教者がそんなこと言っていいのだろうかと思うのですが、それは仏教に誠実に帰依する一人の人間のの熟考された発言だと思いました。

南氏によると、死とは死者の側にあるように思われがちですが、実は、死者を想う生者のの側に張り付いているといいます。なぜなら「死こそが、生者の抱える欠落をあらわすもの」だから。「その欠落があるからこそ、生者は死者を想う。欠落が死者を想う強烈な原動力」になっていると。

「恐山には、死別と追憶がむき出しのまま横たわっています。そこに我々お坊さんは介入することはできません。それが恐山に来てつかんだ実感です(「」部分『恐山』南直哉から引用)恐山は器と南氏が言うように、そこが稀有な装置なのだと思いました。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

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