カミとホトケとニッポン人

『神と仏 日本人の宗教観』山折哲雄(講談社現代新書)

神様、仏様。

我々日本人は人生のその時々において超自然的な存在に頼り縋る場所が違います。季節の行動においても、たとえば大晦日にはお寺からの除夜の鐘を聞き、元旦には神社に初詣をします。日本人の生活の中にはカミとホトケが混然一体となって溶け込んでいるのです。そして無意識にそれらに対する行動様式を取り込んでいます。

宗教学者の山折哲雄は私の好きな著者の一人です。複雑に入り組んでいる日本の宗教的世界をあくまでわかりやすく共感を呼ぶように提示してくれるからです。この「神と仏」もお互いが対照的に補完構造をなしている超自然的な世界観について、なるほどと腑に落ちるよう説明してありました。

■見えるものと見えざるもの

目に見えざるカミ…日本の神々の存在様式としては匿名性があり、神社に奉られている祭神がどのような性格を持つ神であるかを我々はよく理解していない。
また美術に描かれた神々にの個人差というのが欠けている。神体(鏡など)は神そのものではなく、神を表す神聖な象徴物であって神社の背後に広がる森や山にひそんでいると信じられた。
外部に対しては閉鎖的。この神々の世界で一つの中心をなす体系は、農耕神(稲荷神)と武神(八幡神)と祟り神(北野天神)の三位一体の関係

目に見えるホトケ…渡来し伝えられた仏像(半跏思惟像)は現世的な人間の苦悩する姿を象徴している。仏の表情や肉体は人間的な形や姿をかたどったもので、きわめて具象的。神に比べて開放的である。
仏&菩薩の世界の一つの中心軸は観音菩薩(母)と不動明王(父)と地蔵菩薩(子)の三位一体の関係。

■媒介するものと体現するもの

死霊は供養と浄めの期間をへてやがて祖霊となり、長い年月ののちにカミやホトケへとその地位を上昇させていく信仰。人間と神仏が、長いネンゲツののちにカミやホトケへとその地位をさせていくという信仰であり、人間と神仏が目に見えない階段状の連鎖によってつながれている信念体系。

霊の媒介者としての「イタコ」…下北の恐山イタコによるのホトケオロシ(口寄せ)は霊媒機能を持った演劇的な儀礼

霊の体現者としての「ゴミソ」…津軽の赤倉のゴミソのカミオロシ(オロスものは天照、稲荷、観音、山の神といった種々雑多なカミやホトケ)は祈祷や卜占を行う。

イタコ現象とゴミソ現象の基本的なメカニズムは日本の底流する二種類の宗教者類型に対応している。そこには霊の媒介あるいは霊の体現ということを通して。宇宙や異界と交流し、通信をかわす原初的な技術がみられる。

■死と再生

・カミは肉体的なものを脱した不可視の霊体という独自の世界をかたちづくっている。つまり神や神霊の存在は、肉体的なものの形象化を徹底的に忌避する観念によってささえられていた。

・人間は仏道修業によって究極的にはそのままの姿で「仏」になる。心身一如の状態を実現する肉体の鍛練の数々(法華経主義にもとづく心身訓練、大日如来との合一をめざす密教的な心身訓練、念仏にもとづく浄土教的な心身訓練、心身脱落をめざす禅的な心身訓練)は、人間が「仏」と交わり、「仏」になろうとする試みで、肉体という場面、生体という舞台において演ぜられるドラマであった。

■祟りと鎮め

祟る神…怨みをのんで死んだ人間の霊は祟り霊となって生きている人間に襲いかかるが、その怨霊が祭祀され鎮められることによって、その祟り性を脱ぎすて、やがて神霊の地位を獲得して守護神化するという信仰。神霊や物の怪を全面に押し出す怨恨共同体の構図。(御霊信仰、御霊会、菅原道具、天神信仰)

鎮める仏…神霊といえどもいつどこで本来の祟り性を発揮するかわからない存在として怖れられた。そのような危機的状況を解除しのり越えるために呪術=宗教的な手段として、仏教の加持祈祷儀式が期待され活用された。邪霊や怨霊の駆除を使命とする鎮魂共同体の構図(空海、最澄、密教、国家鎮護、不動明王、五壇御修法など)

■巡りと蘇り

巡礼」という宗教行動は「巡る」ことにおいてエネルギーを消尽し、聖地の奥所に到達することによって生命の活力を「蘇ら」せるというサイクルである。それは神仏の加護を媒介とする死と再生の受難儀礼なのだ。

巡礼においては、まず「往路」は霊的対象としての聖地への進入を意味し身心のたえざる緊張と危険にみたされている。その到達点は、魂と肉体の癒しを約束してくれる聖なる中心点で、そこは宇宙の中心であると同時に神話文学の発生地でもあった。しかし、聖地の中心に到達してしまったあとは、たちまち巡礼客の欲望をみたす歓楽の舞台へと変ずる。(飯盛女、茶汲女)

われわれはこの巡礼を通したカミやホトケとの出会いで自己を発見するとき、同時にカミとホトケの聖域によって実現されている自然と美の調和の世界を眼前することとなり、カミとホトケの個性的なこのありかたが、変更のきかないものとしてそこに存在することに気づかされるのである。

カミは「自然」に近く、ホトケは「文化」に隣接している。

■美と信仰

神像の表情はきびしく苦みばしっていて冷たい威厳が全体を覆っている老人のようである。一方、仏像の表情は大づかみにいって、人間の青年期や中年期を理想化したもののようにみえる。このカミとホトケの表情の対照には、日本人の美意識と信仰が微妙に融けあい、響きあう独特の世界をみることができる。

観音菩薩像は母(母胎回帰への衝動)と女(性的な愛への渇望)の統一された女神もしくは仏母に対する信仰として不動の地位を占める。


よく無信仰と評される日本人の宗教概念をうまくまとめていると思います。さすが山折先生、とても整理された感じです。

神と仏 (講談社現代新書)

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