彼は行き来する。彼はそこにいる、彼はどこにもいない

『宗教学講義―いったい教授と女生徒のあいだに何が起こったのか』植島啓司 (ちくま新書)

植島啓司氏は80年代後半において書店の棚を賑やかせた宗教学者で斬新な切り口に興味を持った一人です。植島氏は、様々なサブカル的な要素を取り入れながら宗教に結びつけていく感覚が新しく、当時、先端を走っているようなイメージがありました。その植島啓司による「宗教学講義」は、再読するたびに発見がある私にとって面白い書物なのです。

最近は本もあまり出さないからか、あまり名前を聞かなくなりましたが…。その昔30年くらい前、植島氏がとある美術大学の講座のゲストスピーカーに呼ばれた時、友人に誘われて潜り込んで授業を聞きに行った記憶があります。そのときはパノラマという概念の話だったかと、以来、パノラマという視点が面白く私の中で浸透していきました。

この本は古く、1998年出版のもの。そこにおいても彼はやはり宗教そのものを論じるよりも、その周辺からアプローチしています。たとえば、小説や歌の歌詞、ジョン・C・リリーのアイソレーション・タンクなど、それらが登場することにより、そこに流れているものから何かを感じさせようという論法です。(ジョン・C・リリーがでてくるので、ニューエイジと呼ばれた時代のことですね。古いですね。)

そして教授と女生徒との対話という戯曲形式を用いながら…、最初に結論めいたことを提示し、その後の展開は視線をズラしたところからそれへと至るような道筋を匂わせていく方法論。当時の流行った知的手法なんでしょうか?

では、本題の宗教とは何か?本書においては、アンドレ・ルロワ=グーランというフランスの学者の『物質的秩序を超越するような関心の表われ』という言葉を持ち出し、それはまさに宗教そのものであり、他の言葉ではとても表現できないものとしています。

その他にも『宗教というのは、いわゆる「人間性」の枠をはみでようともがく内的な力』とか、『こちらの領域とあちらの領域とを自由に往来することができるかどうか』といった記載があり、超自然的なものに対する感性といったものが宗教的なものと言えそうです。

それは同じく同書で引用しているフィリップ・K・ディック「ヴァリス」の一節

  GOD IS NOW HERE(神はいまここにいる)

  GOD IS NO WHERE(神はどこにもいない)

に象徴されるように、この超自然的なパワーなるものを、受け手側がどう捉えていくかという問題に関わってくるものとなります。

ところで、本の中で興味深いところがあります。テレビ朝日で当時大島渚や野坂明宏らが登場しバカヤローと討論する「朝まで生テレビ」という番組があったのですが(今もあるのかな?)、1991年に放送された新・新宗教として当時台頭してきていた「幸福の科学」と事件を起こす前の「オウム真理教」が同じ席について宗教について議論した回があったのですが、この本でその模様の一部を再録し掲載しているのです。

内容はともあれ私も当時その番組を見ていました。議論は白熱し、幸福の科学、オウム真理教、ともに双方譲らず、同席していた学者・評論家も挑発的な発言をして、テーブルはえらく盛り上がり、テレビを見ている私もその過熱ぶりに興奮し、ついつい朝まで見てしまった記憶がある伝説の放送です。

この本の紙面でそれが一部紹介されており、周波数を例に出しての魂のレベルやサムシング・グレートとの受信についてのものですが、全く議論が噛み合っていない。そんなことを話していたのね。なんて思ったわけで、今その番組を見たらどう感じるか見てみたい気がしました。


<キーワード探索>

●宗教研究の重要な書物ルドルフ・オットー「聖なるもの」
聖なる体験はもっとも根本的かつ直接的なもので、しかも非合理な経験である」とし、それをヌミノーゼと表現した。
そして、ヌミノーゼの五つの特徴として

①被造者感情(依属感情)
②戦慄すべき神秘
③ヌミノーゼ的賛歌
④魅惑する神秘
⑤巨怪なもの

をあげている。なかでも重要なものは聖なるものが相反する二つのものを持つとする点で
②戦慄すべき神秘と④魅惑する神秘でそれは、人を惹きつけてやまない魅力と遠ざけずにはおけない畏怖感をあわせ持つという矛盾併存、両義性である。

超自然を相手にする場合、まず、それが必ずしも自分に好意的ではないということを知らねばなりません。天変地異、流行病、飢饉など、さまざまな攻撃をしかけてくる。・・・・・・そういうときに有効なのは、われわれが意図的に選び取ったのではない、つまり、偶然に選び取られた行動規範に従うこのなのです。

そこから、占いの二つの重要な要素として、
①人間の内部に超自然的の側から送られるメッセージを読み取る「高感度な器官」が存在するかどいうかという問題
②外界のパターンを認識して、それを人間の精神内部のパターンと結び付けて理解しようとするきわめて構造論的な考え方

タブーについての名著メアリー・ダグラス「汚穢と禁忌」

穢れとは、もともと精神の識別作用によってつくりだされたものであり、秩序創出の副産物なのである」(ダグラス)

「髪の毛だって、爪だって、唾だって、尿だって、血だって、どれもこれも身体の一部だったときはなんともないのに、いったん外に出たとたんに何よりもきたないものになってしまう。・・・・・・自分と他者の境界線上にあるものを回避しようとするのは、われわれの「自己同一性を保存しようとする本能的な行動」(植島)


宗教学講義―いったい教授と女生徒のあいだに何が起こったのか (ちくま新書)

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