世界軸としての聖地はメモリーバンク機能を持つ場所

『聖地の想像力-人はなぜ聖地をめざすのか』植島啓司 (新潮新書)

宗教学者の植島啓司の本 「聖地の想像力」 (新潮新書)。植島氏は私が20~30歳代にかけて華々しくいくつもの刺激的な本を出されていました。サブリミナル効果というのも植島氏が紹介し話題になった記憶があります。

タイトルは「聖地の想像力」、聖地とは空間自体が特別なパワーなりを持っているということ、時代の風化にも耐えて永く人々の信心を集めている場の魅力が持続していることなどがイメージされます。聖地であることは、まず何よりも「場の思想」なのだと言えるでしょう。

なぜ人は『そこ』を聖地と感じ、歴史を超えて『そこ』に訪れるのか。私自身も国内外の聖地を巡ったりしています。そもそも観光とは、言葉を分解すると「光を観る」と書く。観光は、聖地巡礼そのものに違いないのです。

この人を引き付けてやまない聖地を、植島氏は以下のように9項目上げ、定義づけている。そしてそれらの項目は個別に結びつき相互にその性格を強め合っているという。

01 聖地はわずか1センチたりとも場所を移動しない。

02 聖地はきわめてシンプルな石組をメルクマ-ルとする。

03 聖地は「この世に存在しない場所」である

04 聖地は光の記憶をたどる場所である。

05 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する。

06 聖地には世界軸が貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。

07 聖地は母胎回帰願望と結びつく。

08 聖地とは夢見の場所である。

09 聖地では感覚の再編成が行われる。

このように定義づけられる聖地は、基本的に神々しいなにものか=サムシング・グレートと特定の場所の結びつきがあるということになる。そして人々によってそこに祀られるサムシング・グレートは、時代の変化によって変わっていくものの、祀られる場所は不動であるということなのです。

確かに、たとえばフランスの有名な教会がある場所は、かつてドルイド教の聖地であったところに教会を建てたと聞いたことがあります。人間が意味を与えるものはやがて色褪せてしまうが、人間の行為は時代を経ても変わらないということ。

聖地は私たちに感覚の変容をおこさせてくれます。そこはある意味で、大地のへそであり、女性原理が表出するところ(母胎回帰)であり、天と地と冥界が交叉するところであるから、そこに身を置くことで無意識下において感覚の再編成を起こさせる場所であると。

植島は以下のように書いています。

『聖地では、共鳴現象、うなり、振動、パルスなどがコミュニケーションの基本単位となっている。ある種の振動とかふるえのようなものが場を支配しているのだ。』

『そこへ行くとわれわれの通常の感覚や記憶などがどんどん変えられてしまう場所。そこに立つだけでやすらかな気持ちになったり、頭痛や耳鳴りがしたり、普段は感じ取れない気配を感じ取ったりすることができる場所。また、そこは二つの世界<天と地>の境界線になっていて、一方から他方へ行くことができる通路になっているのではないかという解釈もそこには含まれる。ミルチャ・エリアーデはそれをaxis mundi(世界軸)と呼んだ。』

何年かぶりに、この本を手にしたのですが、その本を見ていると私は20年遅れで植島先生の後を追っかけているような気がしました(笑)

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