歴史の波に飲み込まれながらも美しく生きた高僧の物語

『チベットの先生』中沢新一(角川ソフィア文庫)

宗教学者・中沢新一氏が学んだチベット密教の師匠ケツン・サンポという方の自伝的内容の本。 チベット密教僧の自伝なんだ、身近ではないので面白いのかな?と読み進めて思ったわけですが、これがとっても面白い。ケツン・サンポ氏が少年の頃に、仏教に目覚め徹底的に仏教の修行をしたいと感じていく様が、とても新鮮なのでした。子供に仏教を極めたいという感覚は、ユーチュバーになりたいというのはあっても、まず日本にはないです。

そして、様々な経典を勉強し、岩山の洞窟に修行に入っていくケツン・サンポ 青年。私もチベットに行きましたが、そこの岩山は緑が全くないゴツゴツとしたところ。環境的には相当厳しい場所。で、瞑想するための洞窟は、人が来ないためなのか、急斜面の場所であったりするのです。(食料はどうしたんだろう?という疑問があるのですが)

サンポ氏はそこで一人、瞑想を始めるわけですが、もちろん電気があるわけでなく、人もいない、野生の動物が襲ってきてもおかしくない。そんなところでひたすら瞑想修行をするわけです。

五体投地の修行をするのですが、数千回の五体投地を一ケ月あまり続けて、10万回にたどりつくまで続けるというのです。そこの部分を読んだときは、正直、びっくりしました。10万回の五体投地!

それが終わると次は10万回の発菩提心の瞑想を始める。この瞑想は、けがや病気で死にそうな動物を思い浮かべて、なんとかこの生き物が輪廻の輪から脱出して解脱していくことができるよう、我が身を投げ出してもという想いで瞑想するというものなのだそうです。

さらに「マンダラ供養」の瞑想を10万回「金剛薩埵の百字真言」を10万回「グル・ヨーガ」の瞑想を10万回などなど、孤独と戦いながら数ヶ月続けるというのです。驚きというか、10万回というけたはずれの数字。最後は、幸福感に満たされるというのです。なかば信じがたい話ですが、ネパールでチベット密教を学んだ日本人に聞くと実際に10万回やるそうなんです。なんて厳しい修行!

「私は、青い空の中に、本当に自分の心がひとつに溶け込んでいくように、はっきりと感じた。私は、自分が何かとても大きく安定し、堅固で透明なものと、」しっかりひとつに結びついているように感じて、自分の心から、今までみたいな不安や恐れの感情が、消え去っていくのを感じた。」(「チベットの先生」中沢新一著・角川ソフィア文庫より引用)

あるいは、「ヤンティ・ナクポ・セルキ・ドゥチク」という秘密の教えの瞑想があって、この場合は完全に光を遮断した暗黒の部屋の中に入り、21日間を過ごすというもの。食べ物は特殊な設計の出入り口から運ばれる、排せつは臭いがこもらないような便所も設けられているという。この暗闇の中でサンポ氏はすごい神秘体験をするのでした。

「物質でできた世界は、そこにありながら、同時にその物質が私の目の前で、光となって飛散していくのだ。輪廻にあるものと、輪廻を抜け出たものという、二つの存在の次元を異にするものが、まったく同じ場所で、たがいを排除することなく、共存しあっている。ブッダと生命体とが一体であることが、はっきり直感できるのだ。」(同書より、引用)

このようなすさまじい修行を、歓喜に包まれて行うわけだから、チベット密教の僧とは、あらためて想像を絶することをしているものだ、我々ができないことを代わりにしてくれているのではないか、と思ったのです。

ちなみにサンポ氏は、チベット仏教のニンマ派で、究極の教えであるという「ゾクチェン」を修得すべく励んでいるのです。ゾクチェンとは、秘境チベットの大地に根づいた偉大な教え。

そのサンポ氏も中国のチベット弾圧の波にもまれながら、妻子と別れ別れになり、亡命していくことになる人生というものの歯がゆさと数奇さと悲劇。偉大なる僧でも歴史と人生の不条理な荒波には抗えない、波乱万丈の人生、そうしたことも本を読み感じたのでした。

子供の時よりひたすら仏教を極めようとしながら、厳しい修行に耐え、しかし、政治の季節、歴史の波に飲み込まれながらも、自身の使命を全うしていく一人の人間の美しく感動的な姿には、どう生きるのかということも含め大変、示唆に富んだものと思うのです。

サンポ氏はこの本でこう書き終えています。「死ぬときに後悔しないように、来ているうちに努力をしておきなさい」というラマの教えに、なんとか守ることができた。「この本がすべての生き物たちの幸福に役立つことができますように」(同書より、引用)

良質な小説を読んだ読後感のような気分になったのでした。

チベットの先生 (角川ソフィア文庫)

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