聖なるものに触れると、この身は砕け散ってしまうものなのか?
『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ(ちくま学芸文庫)
ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」は、抽象的な記述が多く、ややもすれば難しい本です。1ページ、1ページ、観念的な文章を読み解いていかねばならないのですが漠然としてしている、いきおい感覚的な読み込みになってしまい、おそらくこういったことを指しているんだろうなと勝手に想像し、わからなけれな読み飛ばし進んでいくことになるのでした。ですから、進む道を誤り本来バタイユが示唆したことと違う方向に行ってしまっているのではないかと読みながら不安になったりするのですが。
しかし、私は難しいと言いながら、それでもこのバタイユの「宗教の理論」は比較的読みやすい方なのかもしれませんと思ったりします。なぜなら、この本は宗教の理論であるとしながらも、現実の宗教現象そのものに切り込んでいくのではなく、消尽、蕩尽、贈与、供犠、祝祭、有用性、労働、至高性、内的体験、暴力、死、非ー知・・・・・・などといったバタイユの本ではお馴染みの?キーワードを使いながら宗教誕生のプロセスを説き明かしていっているからです。
バタイユが言う宗教的なものとは、けっして知り得ることのない聖なるあちら側の世界、瞬間にしか、音楽や詩を媒介にしてしか、いけにえを捧げる原始宗教的儀式においてしか隙間見ることができない「連続した聖なる至高性の世界」、その裂目から湧き上がってきた世界を指していると理解できるからです。それは、同じくバタイユがテーマとしたエロティシズムも宗教的なものと非常に近い関係性にあると言っていいでしょう。
宗教的感情の発生の源と理解し得る聖なるもの、内奥性の世界、至高性の世界、連続性の世界(どのような表現でもいいのですが人間では知り得ないものとなります)を、先達が表現しようとした数々の試みは、どれも核心を示す表現ではないとバタイユは前置きながら、その一端に触れた時の表現として次のような例を書いています。
「目玉の飛び出すほどの膨張、歯をくいしばりながら急に炸裂し、そして涙を流す悪意。どこから来るのかも、どこへ行くのかもわからぬ横滑り。暗闇の中で。大声を張り上げて歌をうたっている恐怖。白目をした顔の蒼白さ、悲しげな温和さ、激昴と嘔吐……」
つまり言葉では表現できなく、存在そのものを脅かすなにものか、ということ。それはまた、逆説的に「激烈な暴力であり、また破壊である」ともバタイユは書いています。
ところで、人は意識的な存在である一方、動物的な側面をも持っています。バタイユは冒頭の部分でその動物的な存在を述べているのですが、「全ての動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」と書いていますけど。
つまり、動物は無媒介=即時性=内在性なのだと言っています。私たちがけっして知り得ない聖なる世界のヒントは、バタイユによるともしかしたら、動物にあるのかもしれません。
いずれにせよ、現代の人は意識と道具を使い有用性が支配する中で生きており、宗教そのものも、原始宗教と比べて聖なるものへのアプローチ方法も形式化していっている側面があるものの、その根本はけっして優しいものではないことを唱えているのです。
宗教の理論 (ちくま学芸文庫)