そこから先に行くと一個の眼球になってしまう極点の体験とは?
『 内的体験 』 ジョルジュ・バタイユ (平凡社ライブラリー )
ジョルジュ・バタイユの「内的体験」とは?
それはバタイユが体験した「神秘的体験…恍惚の、法悦の、少なくとも瞑想がもたらす感動の状態」の内的体験について延々と書かれたもの。
バタイユのこの本に出てくるキーワードをピックアップし並べてみると、
客体と主体の融合、交流の場、恍惚、法悦、演劇化、供犠、笑い、答えのない嘆願、赤裸の現存、真の沈黙、否定的企て、非ー知、刑苦、可能事の極限、極点、非ー意味、空虚への転落、知識の断念、裸形、純粋体験、おのれの放棄、脱出口、大きく口を開けた裂け目、極度に不在の現存、征服行為、戦慄的恐怖、代理不能存在、現存在は自我固有の娘、死にゆく自我、超越性の全一者・・・・・・
などなどの言葉を拾い上げていくことができます。それら一つ一つの言葉をみるとどれも感性的で定義づけが難しく解釈がわかれるような漠然としたものが多い。
思うにバタイユは、言葉に表現がしようがない感覚に襲われる昂揚感が好きであっただろうこと、私について存在論的解決方法を模索していたのだろう、最終的には生と性と死の問題であります。
バタイユがこだわった内的体験とは、エクスタシー(忘我、恍惚の瞬間)を求めた旅とも言えるのかもしれません。バタイユはその正体を、本質を、聖なるものの裂け目として探りたいと思ったのでしょう。だから性的行為以外で得られるエクスタシー、たとえば瞑想体験とか、供犠の儀式でいけにえの命が奪われる瞬間(演劇的な瞬間です)の精神の昂揚であるとか様々な瞬間を求めたんじゃないかと思われます。
しかし、そうした瞬間の体験は、理性の枠組みをいとも簡単に吹っ飛ばしてしまう力があるように思います。いとも簡単にです。それはとてつもないパワーを持っていると。だからバタイユ内的体験の本質につおいて、「私はたったひとつのことしか知らない。人間は、永久に、何もしることができまい。」とか「そんな知識は贋物だ。私は何も知らぬ。絶対に何もしらぬ。」という発言を何度かこの書物でしてるんじゃないかと。
ところで、この本の中で、「そこから先へ行くと精神が一個の眼球となってしまう」(そことは内的体験の極み、極点)という記述があるのですが、バタイユの難解な短編小説「眼球譚」は、ここから来ているものなんだろうかとも、はたして、それは・・・・・・。
「生は死のなかに没し去り、もろもろの大河は海のなかに、既知は未知のなかに没し去る。認識とは未知への近接だ。非ー意味はありうべきすべての意味の到達点である」
※「」部分、ジョルジュ・バタイユ「内的体験」(出口裕弘・訳)平凡社ライブラリーから引用
内的体験 (平凡社ライブラリー)