人間の暗部を覗き込んだフランスの思想家

『バタイユ入門』酒井健

大きな書店の哲学のコーナーに行くと酒井健氏によるバタイユ関連の本が多いのがわかります。酒井氏はバタイユ研究の第一人者ということなのでしょう。

バタイユの著作を読んでも体系的にそれをとらえることはなかなか難しい。なぜならバタイユが言っていることは観念的であり体験的要素が強いからだ。そこで酒井氏によるバタイユ解説を著者の文章をほとんど引用し、私なりに感じ、まとめたバタイユのコアな部分と思われるところを列記しました(勉強になった!)。


◆バタイユにおいて供犠とは、人間がいきてゆくうえで、大切なものを滅ぼして、実体も名前もなく現れたかと思えばすぐに消えていってしまう何ものか、聖なるものと仮に呼んでおくしかない何ものかを意識の上に出現させる行為である。その聖なるものとは、客体のなかにはなく、主体の意識のなかに恐怖と陶酔の感覚として現れる何ものかなのである。ゆえに、聖なるものはきわめて不確定なものである。バタイユはこの聖なるものを悲劇的なものと呼んでいるが、悲劇的なものは煎じ詰めれば、苦悩と恐怖をもたらしつつも同時に恍惚と陶酔をもたらす何ものかなのである。

◆バタイユは神秘的体験を「内的体験」あるいは「好運」と呼んでいたが、これは何よりも力(フォルス)の体験であった。それは自分の内部の力が潮のように高まり沸騰してゆく好ましき偶然の成り行きに身をまかせて、恍惚状態へ、脱自の境へ、生と死、存在と無の境界線へ出てゆき、そこで瞬時にさまより、力のままに激しく揺れ動く体験なのだ。この「好運=内的体験」は、高い強度の力への肯定であっても、理性を介さない。高い強度の力がそのまま発露されるのであり、それ故、主体に非固体化を迫り、「裂傷」を穿つ。死なずに死ぬ、部分的な死、小死というバタイユの言葉は「好運=内的体験」の体験の二重の要請ー生命を維持しつつ非固体化という死への運動を生きるーを伝える言葉である。

さらに「好運」の体験こそは「非ー知の夜」とバタイユが呼ぶ状況でもある。そこでは人間の知的行為、つまり何かを認識する行為や論理的に思考する行為、及びそれらの成果は消滅する。「非ー知の夜」をバタイユ言葉を変えて、「無」「不可能なもの」「至高性」とも呼んでいる。この「非ー知の夜」は「内的体験」の極限に、存在の限界線上に切り開ける漠とした広がりで、激しい運動状態にある何ものかである。

 「非ー知」は、虚像解体、知識破壊、裸形化の運動であり、覚醒の働きである。そこにはさまざまな矛盾、対立が生じている。個体化への欲求と非個体化への欲求、生への本能と死への本能、死に対する不安と有用な生から解放される喜び、死との接触を恐れてこれを禁止する欲求と禁止を破る侵犯への欲求、救いを求める嘆願の叫びと恍惚の沈黙、道徳を遵守する真面目さとこれを愚弄する笑い、神あるいは完全者となって他を圧殺しようとする力への意志と道化師となって笑われたいとする気持ち……。「非ー知」は不連続性であり瞬間性であるため認識された「非ー知の夜」は、もう「非ー知の夜」そのものではない。故に「非ー知の夜」から眺められる世界は「賭けへの投入」とバタイユは呼ぶ。「賭けへの投入」とは築きあげたものを無意味に蕩尽してしまう非理性的な所作のことなのだ。

◆バタイユはこの心の底でマグマのごとく熱いまま無秩序に流動している力(フォルス)、人間のばかばかしくて恐ろしげな闇、裸形化された力を、力の内実を生きる。つまり個体性の破壊、他者あるいは世界の力への開けという力の伝藩の運動を、聖なるものとして、恐怖と陶酔の感覚として、生きるのである。人間という個体の強大化を肯定し推進する力の思想を力によって突破して、個体を存亡の危機にさらし、力の思想が隠蔽していたもの、抑圧していたものを見ようとするのである。故にバタイユは浮遊する思考、定点不在の思考なのである。一貫性のなさ、無秩序、矛盾、これが浮遊する思考の特徴だ。もうひとつ特徴がある。目的に向かう持続力の欠如、不連続性、瞬間性である。思考は瞬間ごとの運動となり、相互につながりがなくなる。つまり、浮遊する思考は「好運への意志」を志向する。それによりもたらされる至高性の体験とは未来と関係を持たない自律した現在時におけるエネルギーの蕩尽なのだ。しかし、そもそも人間の生の真の目的が非生産的な消費=エネルギーの蕩尽(奢侈、葬儀、戦争、祭典、豪奢な大建造物、遊戯、見世物、芸術、生殖目的からそれた性行為)にあるのではないか?

不連続的存在とは個々の人間、個人としての人間のこと。死とはこの個別的人間存在への否定である。死をもたらすのは、人間の内部に潜む力である。エロチシズムの体験とは、力の湧出に身をまかせ、死の一歩手前のところまで来て、自己の個体の破れを部分的ながら生きることなのだ。そしてこの個体の部分が的な破れが不可解で不可知な「連続性」への開口部になっている。バタイユの言う「連続性」あるいは「連続体」とは、大きな意味では万物が生滅流転するこの世界の運動状態を指しているが、エロチシズムの体験に関しては、この体験のさなかだけに存する、瞬時に現れては消えていってしまう人間間の力の交流を指している。つまりエロチシズムとは、死を生きながらえの力の交流なのだ。エロチシズムとは死におけるまでの生の称揚である。死の感覚がエロチシズムを引き起こす。

◆西欧の理性主義・人間中心主義的な価値観もたかだか一個の戯れにすぎないという事実、絶対的な概念など存在せずその概念が絶対性を誇れば誇るほど笑いを誘うという事実、そこをバタイユはみている。また、バタイユの歴史像は進歩ではなく反復の歴史像、終わりなき流動の歴史像であるということ。流動自然界はの生滅流転と混然一体になっている。自然を動かしているのと同じ非理性的な力が人間のなかにあって、これが歴史を動かしているというのだ。ならば、非理性的な力による脱自の体験は、西欧個人主義道徳の彼方、善悪の彼岸、道徳的自由の体験であり、こうした個人の否定=「裂傷」においてしか、人間間の真のつながり「交流」はないという。


バタイユは、生と死の概念を過激な論調で展開した稀有な思想家の一人なのだと思う。あえてタブーの領域にも入り込み、危ないにおいのする思想家、図書館に勤務していたというのも、どこか、らしいキャラクターという気がしなくでもない。バタイユが提示する思想は、なぜ死にかかわる様々な部分において、人は過剰なまでの装飾で覆いつくすのかということが見えてくるような気がするのです。

バタイユ入門 (ちくま新書)

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