世界は存在しないという問いかけに慌てる私
マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」を読む
今世界で最も注目すべき哲学者と言われているのが、ドイツのマルクス・ガブリエル、日本でも哲学書のコーナーにその著書が平積みされ、テレビなどにも取り上げられる人気の哲学者。そのマルクス・ガブリエルの著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)を読んでみた。
マルクス・ガブリエルは「世界は存在しない」という新実在論を標榜する。世界は存在しないとは、すべてを含んだ総体としての世界なるものは、存在しないということ。概念的にすべてである世界を境界線で囲む時、その境界線の外は無となる。すべてということは無は存在しない。外に無がある世界は存在しない。概ねこのような理解でいいのではないだろうかと私は理解しました。
たった一つの世界は存在せず、対象領域をもつ(枠組みのある)数多くの世界だけが無限に存在する。つまり存在するとは、何らかの「意味の場」の中に現れるということ。それが、ガブリエルの新実在論=意味の場の存在論となってくる。その「意味の場」とは思考の中にもあって、たとえば、魔女、魔女は確かに存在するというその人にとって現象しえる思考があれば魔女は存在しているというのだ。
段々ややこしくなってくるのだけれど、存在しているのは無限に数多くある意味の場だけ。存在するとは何かが何らかの意味の場に減少すること。意味の場の外部は存在しないので世界は存在しない。私たちに認識できるのは、無限なものの断片。私たちはあらゆる瞬間ごとに、ある意味の場から別の意味の場に移動する経験をしている。
どんどん混乱してくるのですが、ものの見方の逆転であるような気がしてきます。この論法を進めていくと、宇宙というのも全体そのものではない、数ある対象領域の一つに過ぎないとなってくる。あらゆるものには対象領域があるということだ。
そのような中に生きている私たち。では、どうしたらいいのか?
世界は存在せず、無限に意味の場が存在するわけだから、果てしない入れ子状をなす存在論的状況の中に置かれた存在者が私ということになる。存在しているのは果てしない意味の炸裂なんだと。ゆえに人生の意味とは尽きることのない意味に取り組み続けること。生きるとは途方もない探検のなさかにいるのだと。
ゆえに、その探検を楽しむしかない・・・。ガブリエルの思想は、私にとってはクールとしか捉えようがない。どうしても、何か確からしいものを、と心が欲してしまうので。
なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)