ファシズムへと傾斜していく退廃と美と人間模様
映画「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)
■製作年:1969年
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■出演:ダーク・ボガード、イングリット・チューリン、ヘルムート・バーガー、他
巨匠ルキノ・ヴィスコンティの名作です。製作年は1969年とありますが、この時代にこのような濃厚な映画が作れること自体が、ルキノ・ヴィスコンティの才能を感じます。今見ても時代の古さを感じさせない、いかに普遍的な映像美術を醸し出しているかがわかります。
冒頭からびっくりさせられるのが、鉄鋼王の総帥の誕生パーティーで、孫のヘルムート・バーガー演じるマーティンなる人物が、女装し歌を歌い始める部分。ドイツの伝説的女優のマレーネ・ディートリヒ「嘆きの天使」の模倣であり、さらにそれは同じくナチ時代を描いたライザ・ミネリの「キャバレー」へと繋がる映画的系譜といっていいわけです。だいたい、財閥のお爺さんの誕生日に女装して歌うなんてことが、どこかおかしいのです。スタートからおかしい・・・。財閥という富裕な家における倒錯といってもいい。
ヴィスコンティは自らも貴族の血筋として、裕福な上流階級の人々の映画を作っているのですが、どこか作品には退廃しているムードが漂っています。しかし、自らの出自が尊い家系なのからか、その表現の仕方も退廃的、倒錯的なものを描いても、どこかに品があるのです。下世話ではない。ひとつの人間の有り様として淡々と見せている。この滲み出る品は、不思議だなと思わせる部分です。
ところで、女装して歌ったマーティンは、この映画の展開では、極端なマザーコンプレックス、少女愛、近親相姦へ、ナチス台頭とともに、とどんどん心の闇の部分へと自らを追い込んでいきます。そして最終的には母親を自殺に追い込み、自らはナチの党員として、あまりにも美しくその制服を着こなしてみせるのです。自分自身の制御が聞かない心の闇の部分、弱い部分が、ナチという権力と様式美にごまかされるように投影され、衣を被り隠すように張り付いていく部分が巧みに描かれています。このような流れというのは、この時代は極端ではあったかと思うのですが、今でもコンプレックスが権力構造に寄り添うというのはあるのではないでしょうか?
しかし、倒錯のマーティンもそうなのですが、その母親であるソフィという女性も食わせ物で、息子への愛情そっちのけで愛人を作り、会社の主であった義父を愛人に殺させ、会社を乗っ取ろうとします。そうしたドロドロの人物像が、ナチが台頭するファシズムの足音と共に描かれ巧みだなと思うのです。
ナチズムにおいて突撃隊(SA)が、乱痴気騒ぎのパーティーの後に、親衛隊(SS)に襲撃される1934年に起こった「血の粛清事件」とともに、鋼鉄王の一家を破滅へと追いやるために裏で操る政治的野望に燃えるアッシンバッハという人物によるナチのスタイルが重なり、重層的な構造をなしていると感じました。
こうした歴史的悲劇をひとつの家族の物語に重ね合わせ重厚な演出で描き切った「地獄に堕ちた勇者ども」は時代を超えた名作なのです。
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