絢爛たるビスコンティ映画に酔う

イタリアの映画史に残る大監督として貴族出身のルキノ・ヴィスコンティがいます。このヴィスコンティの映画ですが、若い頃に見てた時は正直ピンときませんでした。確かに重厚な映像空間ですが、響くものを感じなかったのです。それが還暦も前の年齢になり、再びヴィスコンティの映画を観て見たら、なんと素晴らしい映画群なんだろうと気がつきました。

よく映画にしろ小説にろ年齢により受ける印象や感想が違うと言いますが、私にとってその代表的な事例がルキノ・ヴィスコンティの映画です。今なら間違いなくベスト映画監督の一人にあげます。若い時とは全く評価が違うのです。

そんなヴィスコンティですが、たまたま古本屋に入るとヴィスコンティ論を書いた本が目に飛び込んできました。作者は若菜薫氏という方、これがなかなかの骨太な論旨と適切な批評を展開しており、私が見たヴィスコンティ映画について、若菜氏が本の中で書いた文章を、備忘録的に印象してみました。よって、以下の文章は全て若菜氏の本からの引用抜粋です。絵は私が映画について描いたものです。

若者のすべて

・作品は「家族の崩壊」を中心主題として、都市と農村、自立と従属、新世代と旧世代、暴力と聖性の対立という副主題が組み合わされている。

・シモーネとロッコは、同じようにナディアに惹きつけられるが、その理由は全く異なっている。シモーネを動かすのは、ナディアの官能的な肉体への性的欲望であるのに対して、ロッコを衝き動かすのは、ナディアの不幸な魂への同情である。

・ヴィスコンティはロッコの職業を、ある意味で最も「聖性」から遠いボクサーに設定することにより、かえってロッコの「聖性」を強烈に浮かび上がらせるという逆説演出を試み、これに見事に成功している。

・『若者のすべて』では、自立をめざしていた筈のシモーネは破滅し、ロッコの自己犠牲による家族の再建は失敗する。・・・・・家族の連帯は憧憬の中にしか存在しない。

・ある特定の地域へのノスタルジーを、「故郷一般」「過去一般」とでも言うべき根源的実在に対するノスタルジーへと普遍化することに成功している。・・・・・・ヴィスコンティにとって、故郷や過去は絶対の理想として永遠に現在の彼方に位置しており、ノスタルジーは消滅することはない。

「地獄に堕ちた勇者ども」

・『地獄に堕ちた勇者ども』は、荘厳にして醜怪な悪の交響曲であり、主題の深刻さと表現の強烈さににおいてヴィスコンティの全作品中でも一、ニを争う傑作である。

・絶えざる力の増大・・・・・真の主役は「力への意志」・・・・・・巨大で黒々としたナチズム・・・・・・権力関係の視覚化・・・・・・最良の瞬間が最枠の瞬間へと逆転する・・・・・<権力=暴力>の発動・・・・・・権力の残酷さと快楽・・・・・・死の舞踏会・・・・・・血の祝祭

・マルチンとは<内面=自我>の欠落した存在であり、純粋な外面性なのだ。<内面=自我>を欠いたマルチンの顔が一体化面以外の何に似ようか。

・人間は個人として無に近い存在であるほど、組織への帰属性が強まる。強大な組織に帰属した弱者は、一転して強者へと変容する。・・・・・・マルチンの空虚な内面はナチスの権力によって満たされ、エッセンベック家で最も弱者だった男は最大の強者へと変容する。

・支配層と被支配層の対立の構造そのものは問われてはいない。この作品で問われているのは、あくまで支配層の内部における権力闘争なのだ。ヴィスコンティは、権力を持つ者の、権力を持たない者に対するサディズムと、それに伴うエロティックな戦慄をかつてないほどの強烈さで描いている。

・権力を持つ者も、権力を失う者も、力への意志の奴隷に過ぎない。権力を持つことの官能的陶酔と権力に憑かれた者の精神的退廃を、誇張を恐れることなく視覚化した点に、この作品の最大の功績があると言える。

「ベニスに死す」

・ヴェニスについての基本的イメージ・・・・・・第一は、没落のイメージであり、第二は、劇場のイメージであり、第三は、死のイメージであり、第四は、快楽のイメージであり、第五は、迷宮のイメージである。

・タジオとは絶対美であり、絶対的なナルシズムであり、欲望される存在ではなっても、欲望する存在ではない・・・・・・。

・アtシェンバッハの前でコレラ患者が倒れる・・・・・・「死の接近」が強調される。

・理性と秩序から徐々に逸脱し、奈落へと下降していくアッシェンバッハの内面世界は、迷宮の彷徨という鮮烈なイメージによって完璧に視覚化されている。

・『ベニスに死す』におけるエロティシズムとは、老いの自覚と死の恐怖の中で、「美」を視線で追い続けることにある。・・・・・・しかし、どれほど欲望が強まろうとも、アッシェンバッハの欲望は視線の欲望に留まり、美的対象を直接的に所有することはできない。

・誘惑と拒否の動作が極限の美に達している。タジオの誘惑の動作が最も美しくなり、アッシェンバッハの欲望が極致に達したとき、アッシェンバッハは、死という後姿によって決定的にタジオから拒まれるのだ。

・ヴィスコンティは、アッシェンバッハの内面世界を表現するために、ヴェニスという都市空間の多様な象徴力を徹底的に活用している。この映画を観る者は、歳の表情そのものから「没落」、「死」、「官能」という主題を直観する。『ベニスに死す』においては、ダーク・ボガートだけでなく、ヴェニスという都市もまた演じているのである。

・一人の芸術家が同性愛的欲望によって論理的美学的に敗北していく過程を、「視線の劇」として、また、「都市空間の劇」として映像化することに成功している点に、この映画の真の独自性があると言えるだろう。

「ルートヴィヒ」

・『ルートヴィヒ』には、政治が、戦争が、民衆が、要するにあらゆる公的空間が欠如している。

・単なる<城=芸術>を創造する芸術家というより、自らの作り出した想像界の住人へと変貌している。

・『ルートヴィヒ』はヴィスコンティの全作品の中で最もバランスを欠いた映画である。この作品には、緊密な物語の展開もなければ、登場人物の立体的な造形もない。

・この映画には、傑作の条件となる重要な要素が欠けている。その一方、至るところに、重層的な意味を持った見事な映像があり、絢爛豪華な衣装から燦然と輝く室内装飾まで、およそ美とは無縁のものはない。この映画には失敗作と呼ぶにはあまりにも多くの意味と美が溢れている。過剰であると同時に、欠落している映画、それが『ルートヴィヒ」なのだ。

「家族の肖像」

・教授の内面では、コンラッドの美に対する同性愛的感情を中核として、その周囲に年長者の若者に対する父性的な愛情が結晶している。・・・・・・美貌と才能に恵まれながら、麻薬や賭博に手を出し、借金を重ね放蕩生活を送り、自らの美と能力を無意味に蕩尽するコインラッドは、現代のスタヴローギン(ドストエフスキーの小説「悪霊」に登場する人物)と言ってよいだろう。

・作品の中で上の階という映像空間は<空虚→充実→空虚>と三段階に変化しており、これがそのまま<孤独→家族の形成→孤独>という物語を鮮明に視覚化することになっている。

・ヴィスコンティは、孤独な生活を送っていた教授が、他者を受け入れ、虚構の家族を形成するが、その崩壊によりさらに深い孤独へ落ちていく姿を通して、老いを迎えた人間の「時代」に対する愛着と嫌悪というアンビヴァレンツな感情を見事に描き切っている。

「イノセント」

・「愛」であれ、「嫉妬」であれ、作中人物はすべて視線の欲望の奴隷と化している。

・この映画で描き出される貴族の姿、とりわけトゥリオの精神の肖像画は・・・・・・本質的に醜悪・・・・・・貴族の論理的退廃を代表する存在・・・・・・貴族の放蕩児・・・・・・エゴイスト・・・・・・凡庸な男・・・・・・無神論者と自己規定し、「善悪の彼岸」に立つ・・・・・・単に自らの放蕩を正当化するものでしかない。

・自らの死を間近に控えたヴィスコンティの視線は、去り行くテレーザの後ろ姿に、自らの「人生」と、生きてきた「時代」までも、重ね合わせているかのようだ。

・ラストシーンは、芸術家の「人生」と「時代」への別れの表現として、ショスタコヴィッチの第十五交響曲の最終章のコーダを除き、二十世紀芸術において他に比肩するものがない。


※以上の文章は「ヴィスコンティ 壮麗なる虚無のイマージュ」若菜薫(鳥影社)から引用しています。

ヴィスコンティは、人間精神を奥深くまでのぞき表現した。映像表現としても他ではまねできないような重厚さで映画芸術の極みに達した稀有な演出家だと思う。

ヴィスコンティ―壮麗なる虚無のイマージュ

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