禁を犯すことが生の高揚をもたらすという与えられた宿命なのか?
『バタイユ 呪われた思想家』江澤健一郎(河出書房新社)
フランスの稀有な思想家ジョルジュ・バタイユについて、江澤健一郎氏なる方による解説本。バタイユの思想は観念的であり、体系だっていないように感じている私。ただ、その着眼点は引き付けられるものがあり魅力的なのです。ただ、どうしたってバタイユは思想・哲学のジャンルに収まる人なので、その深い部分にまで理解をしていくには専門家ではないので無理がある。そこで、江澤氏の書かれた文章を引用し、そこに私なりに付け加えていったものを、本書のまとめとしてしたわけで、私的メモといったほうがいいような・・・そんな記事としてアップしてみました。
◆神秘的で激甚な恍惚のうちに我を失う、あるいは抑制のきかぬ、気も狂わんがかりの哄笑に呑み込まれる、あるいはエロティシズムがもたらす忘我の波に没する……。こうして「私の生という開かれた傷口」が口を開ける。そのような自己の体験をバタイユは内的体験と呼んだ。内的体験は対象の不在であり、対象ならぬ対象である。その体験は、内部の傷口と外部の傷口は口づけを交わし、綻びは綻びと交わり、絶え間なくくずれながら求め合い、交流する。傷口は、そのような交流が生じる場である。内的体験において、神という対象、合一するべき同一性は不在となるが、それは単なる不在ではなく、既知の対象の不在として現れる絶えず新たになる光、あるいはむしろ絶えず新たになる夜、つまり圧倒的に「未知なるもの」である。その未知を前にして、主体は既知のよりどころを失い、知の崩壊、非ー知に曝され、やはり、自己の外へと投げ出され、自己同一性を失う。
内的体験とは、そのような主体と対象の崩壊において生じる恍惚(脱自)である。対象がその喪失へと向かう過程には、操作が、劇的な移行(激化)が必要となる。さまざまな宗教に存在する供犠の儀式は、激化の実践にほかならない。この操作によって、対象は体験に向かう点、発火点となり、恍惚が生じるとともに対象は消え、無限な夜が現れる。しかし、その対象の不在を宗教は神と名付けて再び対象化するが、無神論者はそこに神の姿を見ない。彼にとってはそれは「なにでもない」。その意味で、この体験そのものが権威であり、それだけで価値を持つ。バタイユの内的体験は、経済的に有用性のない、エネルギーと時間の消費、濫費にほかならない。それはただバタイユ一人に生じる特殊な出来事ではなく、あまねく人類に潜在する「呪われた部分」であり、人間性特有の活動、つまり宗教、供犠、祝祭、遊び、戦争、エロティシズム、芸術といった活動は、経済的には消費をもたらし、内的体験を生起させる出来事である。人間世界には無償の体験を、消尽を生じさせる部分が存在する。とりわけ芸術と宗教は、内的体験を視覚的対象を創造する分野である。
◆バタイユは、なによりも芸術の誕生こそが、動物と人間を分かつ決定的な要素であると論じている。動物は水の中に水があるように世界に存在していて、彼らの世界には絶対的に他なるもの、非連続的なもの、超越的なものは存在しない。その世界では、すべてが内在し、直接的であり、連続している。それに対して、バタイユは道具の使用と労働の誕生がもたらした性質を「超越性」「非連続性」として定義する。労働する人間は連続的な時間を切断して、過去・現在・未来という非連続な文節と段階的な進展を導入して、企ての思考を形成する。時間は、非連続な点とそれを結ぶ線の構造に還元され、時間的な座標軸が形成される。時間の文節化は、同時に空間的な文節化を伴う。空間は非連続な点とそれを結ぶ線の構造に還元され、空間的な座標軸が形成される。まさにこの非連続的な思考によってこそ、言語が誕生するのである。物の名は、対象を明瞭に非連続化して、世界にさらなる文節の網の目を展開していく。そのとき人間は「内在性」「連続性」から決定的に遠ざかり、それを忘却する。しかし人間は、芸術を創造することによって、失われたものと再会する。
◆“死と性は、人間の肉体が運命づけられた不可避の自然であり、この人間に内在する自然は、否定によって消滅させることができず、また人間的なものへと飼い馴らすことができない以上、禁じられて遠ざけられるほかなかった。禁じられるものは、人間的な既知の世界を脅かすものである。死は既知なるものを消滅させる。死はその未来の消滅であり、投企の時間性を解体して、目的を享受すべき主体を消滅させる。そしてなによりも死は、絶対的な未知、経験的に誰も知ることができない不可知であり、知の体制の裂け目として現れる。そして性もまた、即時的な充足を求める欲望を掻き立て、労働が構成する投企の時間性を崩壊させる。性的欲望は、生殖の枠組みを超えて、現在における充足を過剰に求め、現在を浪費して、蓄積させれるべき富やエネルギーを濫費することを要求する。さらに性的な恍惚は、理性的な主体が失われるつかのまの小さな死をもたらす。
非連続性の体制は、このような禁止によって成立し、維持され、そうして既知の世界が確立されて、富が蓄積されていく。しかし人間は、禁止の体制によっては成立しない。「侵犯」の運動である。労働のために禁止は侵犯され、富は非功利的に濫費されるのだ。宗教、芸術、遊び、戦争……人間はさまざまな形で富を消費する。祝祭における常軌を逸した濫費、多大な富と労力を消尽する大聖堂の健立、無数の人間を殺害するアステカの供犠……。
バタイユがとりわけ注目したのは「ポトラッチ」、そこではただ富の消尽だけが生起する。禁止の体制において見失われた連続性は、侵犯の運動において再び見出だされる。ここで実現されるのは、非連続な連続性、流出と流入の運動である。つまり再び見出だされる連続性とは、不連続なものの合一なき「交流」である。この侵犯による連続性の回帰は、バタイユにとって宗教的なものの誕生を告げている。恍惚に没入する脱自の体験であり、非連続的な自我が崩壊して連続性を見出だす体験、交流の体験、体験そのものが聖なるものである。個別的な神とは、連続性が回帰する体験が事後的に回顧され、非連続な対象として措定されたときの姿にすぎない。えも言われぬ体験を回顧するとき、たとえば人は、それを個別的な神との邂逅として対象化するのだ。
※以上、「バタイユ 呪われた思想家』江澤健一郎の著書から引用し、私が加筆しました。
バタイユの思想は、人が人生を送るにあたって、魔が差した瞬間など決められた枠組みの中で型通りにいかない、矛盾した行動にこそ顕著に感じることができるだろう。そうした意味で人は生きづらい生き物なのだ。上記にもあるように、動物は連続性の世界を生きることにより、そのような矛盾した破綻をはらんでいません。人こそが、非連続的な存在ゆえに、連続性の誘惑に駆られていくのです。
現代はますます管理されていく社会となっていくでしょう。管理されればされるほど、その枠に収めていく葛藤が生じます。では、自由になればどうか?自由であればあるほどに、逆に、連続性の誘惑は身近になってくるのではないでしょうか?バタイユは人のそうした部分に、鮮烈かつ明確に見ていった思想家なのだと思うのです。
バタイユ: 呪われた思想家 (河出ブックス)