30年以上も前、バタイユはどう読まれていたのか?

「ユレイカ」1986年2月号(バタイユ特集)

ジョルジュ・バタイユに関する書籍を読んでいるのですが、ぶらりと入った古本屋、そこにバタイユをテーマとした月刊誌「ユレイカ」を見つけた。こうしたアカデミックな本は古本屋の定番書籍。1986年に出版された「ユレイカ」の2月号、80年代といえば思想界の分野でニューアカデミズムとうたわれ一斉を風靡した浅田彰氏と中沢新一氏、その二人のバタイユ対談も掲載されている。私は本を読むときに、赤線を引っ張る癖があるのですが、ユレイカに掲載されているいくつかから、その部分を記事にし、ただただ引用しました。

◆「裸体のバタイユ」浅田彰&中沢新一・対談◆

※以下は、浅田彰氏と中沢新一氏がバタイユについて対談した記事から、二人が発言した記事の一部引用となりますが、文脈的には、私が気になったところなので、繋がりません。

浅田…バタイユの持っているカトリック的な地方性というのかなーカトリック的な地方性というと語義矛盾だけど、つまり非常に地方的なものを普遍的であると考えてしまうような地方性に基づいているという気がする。もっと言うと、非常にフランス的な地方性に基づいているという気がする。その中で大見栄を切ってみせられても、外から見るとバカらしくなっちゃうんだよね。……バタイユはあくまでも一神教的な構造の中にとどまりながら、必死になってそれを転覆しようとする、そういうスタンスだと思う。

中沢…バタイユの中でも至高性の体験とかサクリファイズの問題はすべて、ジャンプしてジャンプしながらも到達できないところにある神の問題が描きつづけられた。これはバタイユが持っているカトリック的な特殊性でもあって、その意味ではバタイユの蕩尽の理論も、経済人類学の理論も、サクリファイズの理論もすぐさま普遍化できないものなんだと思う。……バタイユが注目したのはサクリファイズのもつ、決断していく、超越していく、ジャンプしていくという側面だった。これが、彼の思想をすぐれてキリスト教的なものにした。

浅田…バタイユはあくまでも神と神の子のその母というところにとどまりながら、エディプス的な怨念に満ちたその三角形の中で、一種不可能な切断の瞬間というか、跳躍の瞬間というか、そんなものを探し求めてたんだろうし、それをさっき、ゼロ神教化でも多神教でもなく、中性化でも複数化でもなくて、転覆って言ったのかな、あるいは侵犯でもいい、そんあふうに呼んだわけだけどね。

中沢…バタイユはエヴァームという空間に入っていくわけじゃなくて、エタニティーというところと、それが形成する「父と子と聖霊」の三角形ーもちろんここには処女マリアが介在しているんだけど、その中で格闘していた人なんだろうと、大体そんなふうなシナリオで考えてるの。

浅田…『マダム・エドワルダ』なんて読んでてもう情けなくなるのね(笑)蛸のような性器をひけらかした娼婦が「私は神だ」とか言ってみたって、バタイユ自身は戦慄したりなんかしてるのかもしれないけど(笑)、はたから見てると単なるお笑いでしょ。ほんと、あの安っぽさだけはなんとかしてほしい。

浅田…バタイユの場合は、一瞬垣間見られてはその都度ただちに消滅するという形でしかあらわれないけど、非連続が連続の中に溶融する瞬間が必ずあるわけで、それが消費=消尽におけるエクスターズとして出てくるわけでしょう。

浅田…普通バタイユというと、『呪われた部分』なんかを拾い読みして、古代社会の経済理論を立てた人みたいに思っている人もいて(笑)、そこでは日常の文節秩序と祝祭における混沌とした溶融とが弁証法的に交代するとかさ。……それは一番つまんない部分だと思うのね。もし、それだけがバタイユの可能性だとすれば、それを近代に持ってくるとほとんど無効になって、いいところがなくなっちゃう。つまり、混沌としたエネルギーが常に暫定的に日々の成長の中に誘導され解消されていくような近代資本主義社会では、その種の日常と祝祭の弁証法的な交代というのはほとんど成り立たないわけでしょうー周期性そのものはスパイラルという形の中にかすかに残っているけれど。

浅田…バタイユの中でおもしろいのは古代社会に関する日常と祝祭の経済理論なんかじゃなく、徹底して近代的な文学空間のほうなんだよね。……そこで問題となるのは、脱聖化された世界における涜聖という逆説を帯びたすぐれた近代的な体験であって、聖と涜聖、掟と侵犯行為の安定した弁証法的関係はもはや失われているわけね。侵犯行為が問題になるというのはどういうことかというと、近代に入ってアンリミテッドなものとしての神が消失することにより、リミットとリミットを超えることとの可能性が同時に立ち現れるということだ。この両者の関係というのは非常に奇妙なもので、リミットがなければトランスグレッションは意味をもたないけれども、トランスグレッションによってしか、またその瞬間においてしか、リミットというものは存在し得ないわけだから、それは弁証法的な関係というよりも、むしろ一瞬の電撃的な遭遇のうちにお互いを成就=消尽し合うような逆説的なキアスムなのね。

浅田…一瞬の電撃というか亀裂というか、脱聖化された空間における涜聖というパラドックスから来るエフェメールな性格をもったものとして考えれば、そこには決定的に重要な問題が見出だされると思う。

中沢…バタイユの言い方でいえば、無限のただなかに一瞬にして有限性が生じてくる中間状態、その中間状態をこそいつもバタイユは問題にしていた。

浅田…徹底的に近代的な体験、パラドックスをギリギリまで突き詰めていく体験としてとらえると、重要な問題が見えてくると思う。……一瞬垣間見られては消滅してしまう中性化不能な特異点としてのバタイユの限界体験……

浅田…消費社会の表層で演じられている言説空間の中性的な戯れっていうのがブランショ的であるとすると、それを外から全体的に条件づけているのは、今言った意味でバタイユ的な一種の力の場なのね。それはどちらも開いているようで閉ざされた空間にすぎない。

浅田…バタイユについても例のアセファルの森の儀式の話があるけれども、僕はあの話はかなり恥ずかしい話だと思うのね。……あれはまさに岡本太郎好みっていう感じよね。森で火を燃やしてみんなで沈黙して眺めとかさ。はっきり言ってバカじゃないの、ジャングル以前だよね。

浅田…いかにもフランスの古文書学校でちゃんと勉強して、一生図書館の司書をしてた人が考えそうなことだなとは思うな。その辺は圧倒的な限界を感じちゃうんだよね。

中沢…バタイユその人の、あのスッポンポンぶりっていうのは、やっぱりすごく魅力的だな。

以下も「ユレイカ」に掲載されたバタイユに関する論考からの引用です。

◆「光にほかならぬ夜」宇野邦一◆

・知そのものが、この排除から、排除によって成立したのだろとすれば、この知そのものは決して、夜について語ることができない。いわば、知そのものがこの排除の客体であって、ほんとうの主体は排除のほうだからだ。……バタイユの思考は、知と排除されたものとのあいだの決して透過しえない壁の亀裂をさぐり続ける。

・<体験>とは、どんな意味でも、現実の身体に生起した出来事として、実体化され、特殊化されることはない。私たちがまさにそれを生き、それによって生きているのに、いつもそれから、私たち自身によって、人称によって隔てられているようなものなのだ。

・彼の思考の頂はいつも、ある奇妙な笑いによって示される……笑いは意味から逃走する小さな爆発であり、決して無意味にたどりついてしまわずに、意味のない境界で震える痙攣なのだ。

・バタイユは、確かにこのような非連続性の制度に、あくことなく、死に至るほど荒々しい生の形、非連続性を侵犯する恍惚、暴力とエロティシズムに直面する生き方を対立させた。ナルシスティックな自我を保存したままの快楽主義、欲望の解放ではなく、死とすれすれの、大きなゆらぎ、連続性と非連続性とのあいだを往復する生が、そこで目ざされているように見える。

・主体そのものが隷従の過程であり、装置である、というところまでバタイユは、主体の批判を徹底させている。……自己とは実は他者であり、さらにこの他者は、不安定にからまりあった多様体のなかの多様体であり、しかも決してこのような多様体としての他者に自己は自己を開ききってしまうことはできず、普遍性にしがみつきながら、いつも多様体から切断されていることによって普遍性であり、あるがままの自己の即物性と野性からも切断されて、宙づりの、中間的な隷属として存在している。

・知=主体は、私の非知=非主体にうがたれたいまわしい空虚、形式、ゼロ記号にすぎないのだ。

・宙づるの状態、亀裂の増幅、終わりなきパラドックスだけが反復のなかで確かめられるのだ。<内的体験>は決して完結しない。完結しないことの体験であり、「内的運動は全く対象ではない」からだ。

・知的主体を根こそぎにしようというバタイユの奇妙な闘い。それゆえ、絶対知をともなうことなしには存在しえない超越者や全一者は斥けられなくてはならない。そして、この闘いには決して勝ち目がないのだ勝って。しまったなら、そこにまた主体が復活してしまうのだから、全力をあげて敗北しなくてはならない。

・神聖なものは暴力と不可分であったのに、今や暴力のアリバイ、排除の装置、方式になってしまっている。聖性は内容(暴力)をもたない空虚な形式になってしまい、空虚によってのみ機能する。そして暴力は、悪や罪や狂気として世俗の中に、否定性として配置されてしまうのだ。宗教からしだいに脱することによって、暴力はさらに綿密な道徳、法秩序、科学の対象となり、世俗化し、もの化し、分散してきた。暴力は、私たちの個別化された身体、欲望、無意識のなかに、やがて小さなブラック・ボックスのように埋めこまれるのだ。

・性といつも隣接し、性を包み込む非連続性の宇宙を示す死と暴力も、やはり還元しえないものなのだ。

・バタイユの<内的体験>は、内と外とのあいだの深い裂け目を見、内部を徹底してえぐることによって、対立する内と外のさらに外部に、もう一つの外を想定させ、いつもそれを極点にしている。

・私たちは外から、二重に隔てられているのだ。私たちは、〈あるがまま〉の欲望に、身体に、無意識に、〈忠実に〉生きようとして、いつもたちまち裏切り、それらを語りうるものにし、結局エロティシズムから遠のき、死からもはるかに遠のくことによって死んでしまうのだ。エロティシズムが内的体験であるように、死それ自体も内的体験であるにちがいない。

◆「裸形の供儀へ」里美達郎◆

・死、あるいは死の影を導入する、すべての行為・表象は、供儀とみなすことができる。笑いがすべて死の笑いだとしても、死がすべての笑いになるとは限らない。生けにえとなる対象によって、それは、宗教的供儀においては聖なるものを生み出し、肉体の供儀においてはエロティシズムを、言語の供儀においてはポエジーを喚起する。涙、不安、歓喜、恍惚なども、さらに付け加えるべきだろう。……相手を笑う時、ひとは意識することなく、自分自身の死を笑っているのである。さらに、笑いが共有されるなら、交感は相互的となるだろう。

・バタイユにとって、死は生の反対物ではない。むしろ生の最高の贅沢であり、今・ここの全面肯定である。

・バタイユ的侵犯は、究極的には「大いなる遊戯」であり、どこにも閉じこめられてはいない。それは一切の概念をのりこえ、人々を通常閉じこめている概念から出発しつつ、それを「翻弄する」のである。

・主体の供儀とは、一種の神秘体験、ただしあらゆる宗教的伝統、前提と手を切った、非ー知、非ー意味を原理とする、神なき神秘体験であった。知と意味、すなわち言葉を放棄しない限り、「外部」へ出ることはできず、主体の統一性は最終的にはゆるがされることはない。

・無の砂漠にわき出る泉ような根源的過剰が、さらに働くなら、主体は再び日常的な現実に戻ってくるのだ。奇妙なことに、意識の零度、存在の零度が、そのまま360度の全面肯定に逆転されるのである。

・バタイユにおいても、内的体験を経て「あなたは私である」、「すべての存在は根底においてひとつである。ひとつでありながら、同時に彼らは斥けあっている」という認識が生れる。バタイユの連続性と不連続性に関する思索は、これに基づいているわけだが、連続性の優位はゆるがない。

・バタイユにとっての共同体(否定的共同体)の最終的根拠はこの存在の根源的連続性にある。それは日常的現実、通常の共同体においては見失われているが、内的体験の極で、再び見出だされるものなのである。

◆「物質的恍惚のために」西谷修◆

・いかにも世は「バタイユ的」だ。生産よりも消費が、労働よりも遊びが称揚され求められ、「消費」は、飽和し恐慌を繰り返して再編されてゆく資本主義の見出し最後の商品となったかのようである。

・<知>がどんな布置をとろうとも相変わらずバタイユは分類不可能なのだ。なぜならバタイユの<知>は何よりもまず<非ー知>だからだ。<非ー知>は<知>なしには表明できないが、<知>のように限定された対象をもちその対象の定位によって、自己を定義するものではなく、対象をもたない、あるいは限定しえないものしか対象としてはいないのである。

・意識が消滅し主体がもはや客体をもつ主体ではなくなり、無限定な実在ー対象として把握される実在ではなく、対象の不在として、主体を呑み込む海として、感性的な強度によってのみ実在性を告げるーに開かれるその事態を人間の可能性、それも限界を超えたがゆえに至高の可能性として肯定すること。だが、それを神、あるいは神のパラダイムたるいかなる超越性にも委ねないこと。

・ニーチェの中に、バタイユは即座に自分自身の姿を見てとったのだ。

・バタイユは、絶対知を「媒介」に<錯乱>の体験を<非ー知>へと高めた。これによって<体験>は、ヘーゲル的言説の中身をすべて包摂した。ということは、人間的現実の一切の果てにある<内的体験>となったのである。

・古代のグノーシス派以来の知の極北体験は、こうして、ヘーゲル的人間の生成過程をニーチェ的主体として生き抜いたバタイユによって、おそらくはじめて書き変えられた のだ。思想史的意味を言うとすれば、それが掛け値なしに巨大なバタイユの思想的意味であって、つかのまの<知>のモードの変遷の次元をはるかに越えたところにある。

・バタイユが繰り返し強調するように、<知>の努力なくして<非ー知>はない(<非ー知>とは単なる無知ではなく、すべてを知り尽くしたあとに到達される。

Follow me!