有用性を追求する資本主義について呪術的に考察する
『呪われた部分 有用性の限界』ジョルジュ・バタイユ(ちくま学芸文庫)
バタイユは、太陽とは無限に贈与する存在、象徴であり栄誉のイメージであるという。我々は日頃、この太陽の恩恵を半ば当たり前のようにそして無意識に享受している。天候不順が続き日照時間が減ると我々は大騒ぎし、下手をするとトップニュースにまで踊り出る。
太古、世界中で太陽が神と崇められたように、この地球に住んでいるすべての生命にとって最も大切な存在である。この尽きない光、エネルギーを届ける存在こそが栄誉に値するものと感じていたのだという。
栄誉としての太陽、古代人はこの太陽の栄誉を得ようと自己を贈与した。太陽のように生きること、それは財と生を浪費しながら生きることが求められるという。太陽のような自己贈与、浪費こそが宇宙との一致を実現するのであり、日々の生活を豊にした。この栄誉ある行動こそ人間を光らせることができるのであり、<生>に値打ちを与えるのであるとバタイユは考えている。
しかし、宗教改革以後、世俗的・現世的な有用性にこそ人間の生活の基礎があるという考え方が支配的になったという。黄金を栄誉の浪費のためではなく有用な活動のために捧げるということ、それがまた資本主義の発展にもつながったのだと。
資本主義は人間に、祝祭の濫費を放棄するよう求める。かつて祝祭や同じような種類による浪費によって雲散させたものを、資本主義は生産を発展させるために蓄積するようになる。貨幣は生産の手段とみなされ、資本拡張のための機能となった。資本主義は成長するか、枯渇するかのどちらかしかなく、成長を停止した瞬間的から崩壊し始めるのだとバタイユは言う。
人間にとって豪奢とは、社会的な地位の表現である前に祝祭の表現であったのだ。祝祭では、人々は交じりあい、交感する。ところが現代の豪奢とは、人々を分かつ豪奢にすぎない。地位を築くための浪費による豪奢なのである。資本主義下においては文学も見世物も全ては貨幣に還元されていくのだ。
《資本主義とは富を生産する拡張のために、富の利用が是認されるシステムであり、システムが停止することは想像もできない。個人の費消はこのメカニズムのうちに取り込まれていて、もはや出口がない。どれほど非生産的な浪費が続き、さらに拡大しようとも、最初に留保された富の本質的な部分は、そのまま存在し続けるのである。
どれほどの繁栄も、これを変えることはない。このシステムは永続的に悲惨の感情を、悲惨の道徳的な習慣とふるまいを生み続ける。……最終的には、生産が過剰になる。生産が過多になり、生産したものをもはや売り捌くことができない瞬間が訪れる。》、とバタイユはこのようなことを書いている。
余剰、浪費、蕩尽、費消、自己贈与…、キーワードを並べてみる。これらの言葉の裏にあるものは何か?バタイユの本をを読んでいると<わたしの生をかけめぐる流れ>というものが出てくる。それは生きている者が持ち得るエネルギーのようなものか?少なくともそれは効率的な有用性でまとめられるものではなく、過剰で浪費されるべきものと言えそうだ。
この<わたしの生をかけめぐる流れ>は、基本的には個体の内にありながらも《内部だけに流れるのではなく、外部にも流れる……わたしの生は、わたしに向かってくる力、他の存在から訪れる力にも、みずからを開いている。わたしのものであるこの生は、どうにか安定している渦巻のようなもの》とあるように他者との交流に可能性を開いているものであり、《言葉、運動、音楽、象徴、笑い、身振り、態度などは存在の間で<伝染>が起こるための通路である》とバタイユは書いている。
チベットという土地に行った時に、そこは人が暮らすに困難な高地であり、剥き出しの岩肌が続く荒野でした。しかし、そこに根付いたチベット密教の寺院に入ると原色鮮やかな絢爛たる仏教美術の世界が広がっていました。
輪廻転生を信じるチベットの人達は、幸福な来世を送りたいために、すべての生きとし生けるものの幸福を願い五体投地を繰り返しています。
私はバタイユのこの本を読んで、その光景を連想し、かつ、彼が説いた思想の現象面が形を変えて見ることができるように感じたのです。バタイユの言う有用性は、便利さという落とし穴に慣れてしまった我々にとって1つの問題提議、呪われた部分とは皮肉たっぷりな響きを持っています。
※《》部分は、「呪われた部分 有用性の限界」ジョルジュ・バタイユ著、中山元訳(ちくま学芸文庫)から引用
呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)