エロスは侵犯という観念的暴力によって生じるという論理

『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ(ちくま学芸文庫)

ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」、この本は澁澤龍彦の訳で30年以上も前に読んだことがあります。今、このバタイユの「エロティシズム」は私にどう映るのでしょうか?そこで私の独断と偏見、読み違い、思い違いありありで、極力、訳者の言葉を生かしながら、まず、私流にまとめてみました。


まず認識しなければいけないことは、我々は不連続な存在であるということ。我々は有限の存在としてこの世にあり、いずれは、を迎えその存在は破壊され腐敗し消えてなくなってしまうのである。この不連続の存在である我々にとって、存在が消滅する死こそ、最も暴力的な事態なのである。暴力は排除されなければならない。そこで禁止が生まれる。日常=労働の世界は暴力を排除した。

しかし、一方で死が連続性の発露としてたち現れてくる。この連続性=存続こそが、我々が辿り着きたいと願う領域なのだろうか?そこは、我々を恐怖させるものの、聖なる世界として映り我々を魅惑する領域なのだ。エロティシズは、この連続性の開け=侵犯にこそ、その奥義が隠されている。我々は時に禁止に対して侵犯することがある。しかし、この侵犯は禁止を消滅させずに解除するだけである。禁止は侵犯されるために存在しているのだ。そこにエロティシズムの原動力が隠されていて、侵犯は禁止を享楽するために禁止を維持する

度外れに荒れ狂う暴力を前にして、我々が唯一存続でききたのは、非理性的な嫌悪、恐怖心だけであり、これがタブー(禁忌)の本質なのである。タブー自身、大本では恐怖の震えなのである。この暴力への嫌悪感、恐怖心こそが、逆説的に欲望の根源としてあるのだということを認識しなければならない。エロティシズムは暴力の領域に、侵犯の領域に属しているのだ。つまり、性活動は暴力なのであり、直接的衝動として性活動は禁止で成り立っている労働を混乱させることができるのである。

我々の生は、全体としてみるならば、不安に陥るまで浪費を渇望している。不安がもはや耐えられなくなる限界まで渇望している。つまり、人間の生は本質において過剰なのである。生とは生の浪費のことなのだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くしてゆく。生は自分が創造したものを際限なく滅ぼす。生ある存在の多くはこの運動のなかで受動的である。そして極限において私たちは、私たちの生を危険にさらすものを決然と欲する。運よく力に恵まれたら、人間はたちどころに自分を消費し、危険に身をさらしたがるのだ。

性活動と死は、自然の無数で尽きることのない存在たちとおこなう祝祭の強烈な瞬間にほかならない。すべての存在の特性である存続への欲求に抗って自然がおこなう無際限の浪費という意味を、性活動も死も持つのである。


このように、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、我々一人一人は<連続性>を希求しながらも、やがてその個体は腐敗し滅んで無くなってしまう<不連続>な存在であることを強調しています。我々を滅ぼす<死>は最も暴力的であると。

そうした暴力の恐怖から我々はさまざまな<禁止>を作り上げていくことになるのですが、時に我々はその<禁止>を犯しタブーに近づく<侵犯>を引き起こしてしまいます。この<侵犯>こそは<連続性>の入口として我々は感じ取るのであり、エロティシズムの本質はそこにあるとバタイユはいうのです。逆の見方をすれば、禁止は侵犯するためにあるのであり、同様にバタイユは、美は汚すためにあるとまで言っているのです。美=女性とした「エロティシズム」におけるそれに言及しているところによると、

『エロティシズムの本質は汚すことだという意味で、美は第一に重要なのである。禁止を意味している人間性は、エロティシズムにおいて侵犯されるのだ。人間性は、侵犯され、冒涜され、汚されるのだ。美が大きければ大きいほど、汚す行為も深いものになってゆく。』

『肉体の運動に没入する者は、もはや人間ではなく、獣たちのように盲目的な暴力そのものになりきっている。』

このような文章を読むと、バタイユその人はイメージ力が豊かな人だったんだろうなと、彼が求めているテーマは解決しようがない神秘の奥の、またその奥の世界であり、そこに囚われの身になってしまった稀有な思想家という側面が見えてきます。

たぶん、バタイユに与えられた性の部分は突き詰めて思考することができたとしても、与えられなかった性の側面はわからず仕舞いであったのだろうなと、陰陽半分の側面しか生きることができない私には、そう思えたのでした。

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

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