欲望の装置としてのブヨブヨした球体

ジョルジュ・バタイユ「眼球譚」

エロスや宗教、死といったもので多くの書物を残し、後世に影響を与えたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの処女作「眼球譚」。まったくもってこの短編小説は、それを読む年齢によっても印象が違うのだと思います。それは人が持つエネルギーと密接に関連しているからでしょう。

こということで、この「眼球譚」を読んでいて思い出したのがマルキ・ド・サドの小説「悪徳の栄え」です。一つは短編、一つは長編と形は違えども、とても似ているように思えました。いずれも性的なエネルギーの力学により描かれたと思えるから。

お互い小説に登場する中心的な人物の性的な行動は、愛情とか人間性とか、そうしたものは全く無視した行動原理で動いていて、道徳心などこれっぽっちのかけらもなく、ただただ己の快楽のみを即物的に追求するある種の快楽マシンのようになったものを描いているからです。

そしてそこには作者の欲望からくる果てぬ想いの理想化された歪んだ持ちつ持たれつの男女の関係がある・・・。

それは感性が呪われているのか、とにかくクレイジー。破天荒でハチャメチャなその放蕩ぶり、淫蕩ぶりは現実的に実行するには無理なレベル、それをやってしまうと犯罪になってしまう。妄想が膨らみ、歯止めが効かない。それはテキストという文字化することによってのみ昇華されていくのか?

「眼球譚」はそのタイトルにあるように、淫靡な世界に、卵=眼球といった象徴的なものを導入することによって、暗黒の精神の中にもある種の詩的で象徴的な記号が導入され、混濁の中にも知的喚起を呼び覚ますような効果があります。

知的データベースである図書館に勤務していたバタイユは、昼間は本の山を相手にしていたわけです。そこはあるルールで秩序づけられた世界であり、それを破るとたちまちに無法地帯になりかねない維持に努力を要する人工的で無機質な空間です。およそ「眼球譚」の無法な世界とは別世界で、人間の手で人間の頭を使って書いた書物を人間が造った世界認識構造で仕分けし整理する。そうした環境で働いていたバタイユが、自分の無意識の欲望を開放して書いたような小説を、書いたのはある意味で彼なりのバランスをとっていたのかもしれません。

しかし小説に導入した生々しくブヨブヨした球体で視覚という特異な機能(世界認識にとってとても重要な機能を負わされている)が与えられた「眼球」という器官を、性的な欲動に結び付けて書いたところが、単なるエロティックな三文小説を遥かに超え幻想的な作品に仕上げているのは間違いないと思います。何故眼球なのか?何故卵なのか?不意の球体の出現が思考の変化球になっているように感じました。

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