妖怪について学ぶことは、日本を、人間を知ること
『妖怪文化入門』小松和彦(角川ソフィア文庫)
昨今は美術館でも妖怪展を夏になると開催するようになり 市民権を得てきたと言えそうです。
本書の著者の小松和彦氏と言えば妖怪研究の日本を代表する第一人者であり、そのジャンルを時に読者に合わせてわかりやすく、時には学術的に解説してみせるというのが私の氏への認識です。
この本では小松氏は過去の様々な妖怪研究の成果のエッセンスを簡単にまとめながら、氏としての妖怪へのの理解を披露しています。
それは民俗学的な狭い領域でのみ語られるものではなく、さらに領域を広げ研究されるものであり、最終的には
『日本人であれ、外国人であれ、日本文化に興味をいだき、その理解を深めていくと、やがて「妖怪的なるもの」に出会うことになる。……「妖怪的なるもの」を通じて浮かび上がってくる日本文化は、疑いなく、これまであまり知られていなかった、グロテスクで、薄気味悪く、ときにはユーモラスであるような者たちが織りなす魅力的な世界である』「妖怪文化入門」小松和彦より引用
というように、妖怪研究は広くは日本文化研究なのであり、人間研究なのだというのです。
では小松氏が定義する妖怪とは?以下のように記載されています。
妖怪とは、『「あやしいもの」や「あやしいこと」、つまり「怪異」というふうに理解しておくのが無難である。すなわち、人に「あやしい」と思わせるものはすべて、「妖怪」というラベルを貼ってもかまわないのである』と、そう来たかって感じです。
これは緩やかな大雑把な定義と言えそうなのですが、実はその大雑把な領域こそが妖怪というものを捉えるに都合がいいということになります。
妖怪は水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に代表されるようにキャラクター化され愛嬌のあるものとして世間的には、流布しています。それらキャラクター化され、街起こしにも一役かっている。
時に、かわいい?と思える妖怪でも、その本質は「あやしいもの」であることは間違いない。
神隠しにあったとか、憑依したとか出来事としての妖怪であれ、常識ではありえないようなことが起こった時の原因とされる超自然的存在な妖怪であれ、ねずみ男やぬりかべのように造形化された妖怪であれ、あやしい=怪異=妖怪は、『人びとの想像力(創造力)を刺激して豊かな文化領域』を生み出してきたということになってくるというわけです。
であるならば、それはまさしく文化研究であり人間研究ということになる。
小松氏は妖怪研究の先駆者3人の例を出しながらご自身研究スタンスも明らかにしています。
まず先駆者ですが、「妖怪学」という言葉の名付け親である井上円了を挙げ、「仮怪」(=科学的・合理的に説明できる現象であるにもかかわらず、そのような説明の仕方・知識をもたないがために、超越的な力や存在を持ち出して説明している現象)と「真怪」(=まだ十分に科学的・合理的に説明できていないが、科学の発達がやがて説明することになると思われる現象)という領域に分け、「仮怪」としての妖怪を合理的に説明することで撲滅をはかろうとしたと解説。
次に風俗史家の江馬務を挙げ、彼の「日本妖怪変化史」は、妖怪撲滅の井上円了とは立場を異にして、歴史学の視点から妖怪の変遷をたどる研究で文化史の中にそれを登場させ、妖怪を歴史的考察物として再浮上させたとしています。
最後に民俗学の大家である柳田國男をピックアップし、柳田は妖怪の存在を信じていた人びとの思考構造=心性にそった「妖怪の宇宙論」とでもいうべき研究の必要性を説いた。
彼の妖怪研究は①全国各地の妖怪種目の採集②妖怪は場所に出るのに対して幽霊は人を目指して出る③妖怪は神の零落したものという3点を強調したと。
そうした先駆者の例を出しながら、小松氏の研究スタンスは、妖怪を俗信とみない、神の零落とみない、前代の神信仰の復元のための素材とみない、民間伝承に限定しない、撲滅すべき対象とみない、というもっと幅広い解釈と現代社会性を考慮した文化研究であり、人間研究であるとしているのでした。
さらに小松氏はこの本では、あやしいもの=怪異=妖怪の代表として、憑きもの、妖怪、河童、鬼、天狗と山姥、幽霊、異人・生贄、境界といったテーマの文化研究の足跡を簡単にまとめ紹介しています。
それら個々の言及はとても興味深いのですが、私は特に憑きもの、異人・生贄、境界の項が面白いと感じました。それらは奥深いので、個々のテーマに私が興味を持ったときにガイドブックとして再読するのもよしと思いました。