倒錯的な関係性が異色の光を放つ「愛の嵐」

映画「愛の嵐」(1973年)

■監督:リリアーナ・カヴァーニ
■主演:シャーロット・ランプリング、ダーク・ボガード、他

1973年に製作されたリリアーナ・カヴァーニの「愛の嵐」は、50年と言う歳月を経ても、観るものの心に、これは何?と一種異様な磁場をもった作品と言えるだろう。戦時中、ナチスの収容所で親衛隊の幹部であったマックスと、そこにつれてこられたユダヤ人女性のルチア。

終戦後、ホテルマンとして過去を隠して生きているマックス。そこに宿泊に来た著名な指揮者夫妻。その婦人こそ、かつて収容所時代に、マックスがもて遊んだルチアだった。ナチス親衛隊の幹部として、権力をふるい、ルチアを己の欲望のはけ口にしたマックス。しかし彼は、終戦後、続くナチスの残党狩りにおびえている。

過去に悲惨な体験をした男に出会ったなら、避けたいと思うか、あるいは、復讐をしたいと思うのが普通の感情かと想像するが、この映画の展開は全く違う。

マックスにとってルチアは、自分の過去を知る危険な女。しかしその過程で女を天使とあがめ、愛するようにもなった。ルチアの肉体にも、男の愛欲の記憶が刻まれていた。断ち切られていた記憶が、戦後のウィーンで再び二人を引き寄せる。偶然の再会を通して、愛とも呪縛ともつかぬ、倫理の枠を逸脱した関係の底へ、二人を抜き差しならぬ結末へ陥らせていく。

この倒錯的な男女を描いたのは女流監督のリリアーナ・カヴァーニ。彼女はドキュメンタリーで短絡的な構図に収まらない、被害に遭いからくも生還を果たした歪んだ心をユダヤ人女性を取材したのが、この映画を作るきっかけだったという。

映画史において異色作として名を残す「愛の嵐」だが、この倒錯的な映画を作ったのが女性であるということ。現代の女性が見たら、どう映るんだろうか?とても理解できないと拒否感をしめすのだろうか?あるいは、過去の傷が人の行動を支配してしまう、トラウマが人の行動を支配してしまう現実を極限状態で描いた作品として評価するのだろうか?

カヴァーニは映画においてなぜこうなったのかを説明しない、それが不思議な魅力を放つ。体験と記憶が人の行動を支配してしまうというのは、この年齢になってわからなくもない。ただそこに感情も存在しているということがあるだろう。

有名なルチアがナチスの将校の前で半裸で踊らされ、歌う頽廃的なシーン。こんなことを歌っていた「何が欲しいかと聞かれれば、小さな幸せとでも言っておくわ。だって、もし幸せ過ぎたら、悲しい昔がこいしくなってしまうから。賛否の声が真っ二つに分かれる映画が「愛の嵐」だ。

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