聖地へ至る銀河の道で起こる時空を超越した、あれこれの話

映画「銀河」(1968年)

■製作年:1968年
■監督:ルイス・ブニュエル
■出演:ポール・フランクールローラン、テルジェフアラン、キュニーデルフィーヌ・セイリグ、他

スペインの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラまで巡礼する道を「銀河」というそうで、そこへ巡礼する若者と老人を主人公に、時空も歪み現在から過去へと、過去から現在へと行き来し、キリスト教とは何かを問う映画です。

そういえば昨年だったと思いますが、サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼を取材したドキュメンタリー番組を放送していました。それを見ていると過酷な旅ではなりますが、お互い助け合いながら、多くの人が巡礼している印象をもちました。

ルイス・ブニュエルは徹底してキリスト教について問いかけをするので、まずは信者が見るといろいろ言いたくなるだろうなと。映画には異端審問から、派が違うことで解釈の論争が起こり最後は決闘するなど、かなり極端に描いています。

あるいは無原罪のお宿りとしての聖母マリアの顕現や、イエス・キリストが盲人を見えるようにする奇跡まで描いており、どこまでブニュエルは、キリスト教を批判しているのかが、わかりづらい映画でした。 この映画の評価としてキリスト教を理解しているという評や、批判しているという評もあり、それらが混在したカオスのような映画ともいえます。

そうした意味では、神は存在するのか?という命題ではなく、宗教という現象面を冷静な眼で描いた映画なのかもしれません。日本でも神道の神々と仏教の仏達が混在し、本地垂迹説ではありませんが、同体視したりしています。あるいは七五三は神道で、結婚式はキリスト教で葬式は仏教という、ブニュエル的な突っ込みどころは日本にも多々見られるような気がします。

ブニュエルの面白いところは、様々な矛盾や疑問を淡々とそしてストレートに描き、時に笑いをもよおすように構成し、全体として突き放した視点がユニークだなと思うのです。コミカルな感じが深刻さがそこにはなく、人間存在のおかしさを天の視点から見ているような、そんな気がします。なので見ていても重くはならないし、軽い感じで見ることができ、ある意味で稀有な映画監督だなと思えてくるわけです。

そのユニークさが、一時的なマイブーム?としてのルイス・ブニュエルという人が残した映画を見る楽しみになっているのだろうと思っています。

<プロの眼>

●もし『銀河』の錯綜した構成に一貫して通じているものがあるとすれば、それは異端をめぐる神学的論争という主題である。実際このフィルムでは、イエスから中世の大学生、二十世紀のレストランのボーイ、憲兵隊長にいたるまで、あらゆる登場人物がキリスト教の教義をめぐる討論に取り憑かれている。誰もがひっくりなしに語り続ける。娼婦がホセア書の預言の成就を宣言し、二人の貴族がアリスの迷いこんだ「鏡の国」よろしく、神学論争をこじらせて決闘を始める。これはほとんど常軌を逸した世界といってよい。登場人物は誰もが極端に様式化されている。彼らは、心理主義的内面をもった存在としてではなく、ある特定の教義の信奉者、真理と見なされた観念の権化として呼び出されるのだ。観念の人格化と呼んでいい。

●『銀河』はそうしたわけで、一種の書物戦争のテクスト、複数の教義の寄せ集めと見なすことが許される。二人の浮浪者は狂言回しであり、彼らが出会うことになる者たちとは、先行する無数のテキストから召喚されてきた言説に他ならない。

●『銀河』のなかでは、正統・異端を問わず、ほとんどすべての人物が自分の所属する教義を確信し、その正統性を強く主張するあまりに、周囲に不寛容であるといった、滑稽な事態が描かれている。要するに、教義に囚われた者と、教義の桎梏から解放された者の違いだけが存在しているのであって、ブニュエルは教義の内容の審査に深く関与しているわけではない。問われているのは教義の純粋に形式的な側面の引用であって、実質ではない。

●こうして『銀河』は、最後の切り札であり、一見教義解体者の印象を与えるイエスですら絶望的な教義の徒であり、結局のところ、他の登場人物と本質的に変わることのない存在であることを証して、幕を閉じる。『銀河』は異端礼讃のフィルムでも、正統と異端という二項対立を調停するフィルムでもない。そして協議に対する非教義の擁立を計るフィルムですらない。ただ、ジャンとピエールという二人の巡礼の彷徨だけが存在している。彼らの辿った道筋、目的地そのものが虚構のものと判明してしまった移行の全体だけが現実のものである。『銀河』は偉大なる線分のフィルムである。

※上記、「ルイス・ブニュエル」四方田犬彦・著(作品社)から引用

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