唐突に終わる不完全燃焼は、作者の戦術なのか?
映画「小間使いの日記」(1964年)
■製作年:1964年
■監督:ルイス・ブニュエル
■出演:ジャンヌ・モロー、ミシェル・ピッコリ、ジョルジュ・ジェレ、他
ルイス・ブニュエル監督の映画「小間使いの日記」は、彼がシュルレアリストであるということを差し引いても、ちょっと不完全燃焼な印象が残る作品と感じました。
ジャンヌ・モロー扮するおしゃれな都会的な女性が、パリからとある田舎のブルジョワの家に小間使いとして働き始めます。その家の住人は皆クセがある人達。この女性は気丈なんだけど美人でおしゃれなので、主人や下僕からも注目の的。その主人は靴フェチで、靴を抱いたまま憤死してしまう。
そんなとき、近所の少女が森のなかで殺されてしまいます。映画の作り方では、あの男が犯人では?と。小間使いの女性も犯人探しに乗り出し、サスペンス風な予想外の展開へとなっていくわけです。
が、謎を提示したままそれが解明されるでなく映画はあれよ、あれよと違う方向に展開しあっけなく終わってしまいます。自分の体を張ってまで犯人を突き止めようとしたモロー演じる小間使いの女性は、従事していた家と敵対する家の元軍人と結婚してしまい、それまでの展開は一体なんだっだと。
人生と意外とこんなもん、不条理の積み重ね。過去の自分と今の自分は時代が変わると境遇も変わるので本当の自分というものに覆いをかけて真逆の立場に身を置くことだってあり得るのだ、ということを言いたいのでしょうか?
それほどに展開が、あれっ?と思わせる、拍子抜けの映画なのでした。ブニュエルの戦術にはまったのか?そうではないのか? 主演のジャンヌ・モローの美しさが目立った映画でした。
<プロの眼>
●蓮っ葉で打算的な庶民の女という主人公の性格を、独自の道徳観のもとに周囲の状況を思慮深く観察し、行動的な女性へと作り直している。セレスティーヌは単に媚態に満ちたお転婆娘であることをやめ、何食わぬ顔してブルジョア家庭の内側に侵入し、彼らの生態を批評的な距離のもとに観察する主体的存在である。
●セレスティーヌはこうしたブルジョアたちの一人ひとりを適当にあしらいながら、彼らの卑小な悪徳を黙って観察している。かれらは『それを暁と呼ぶ』のブルジョアたちのように冷酷な権力を振り回して労働者に憎悪されるわけでなく、むしろ社会の片隅にあって孤独に自己の性癖の内側に閉じこもっている、「慎ましやかな」存在である。その意味でこの作品は、ブルジョワジーの凡庸さをめぐって昆虫や小動物を眺めるかのように撮影された、滑稽味を帯びたドキュメンタリーといえる。
●このフィルムではブルジョワジーの世界観の狭さが諷刺的に描かれる一方で、下層階級の男性が携えている野卑と暴力が前景化され、時代の趨勢である右翼の民族差別主義、軍国主義に連続するものとして描かれている。
●このフィルムの後半は、セレスティーヌがこの殺人者を告発するため、色仕掛けで彼を誘惑し、ついに警察に逮捕させることに焦点が投じられている。そこには1930年代スペインにおける軍人独裁の惨禍を目の当たりにしたブニュエルの、ジェンダー心理学と結合した政治的行動への洞察を読み取ることができる。
※「ルイス・ブニュエル」四方田犬彦・著(作品社)から引用