男女の力学が変化する愛が不毛なシュルレアリスムな映画

映画「哀しみのトリスターナ」(1970年)

■製作年:1970年
■監督:ルイス・ブニュエル
■出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、フランコ・ネロ、フェルナンド・レイ、他

このルイス・ブニュエルの映画は前半と後半で男女の力関係がかわってしまうのが特徴のように思います。前半は女好きの貴族ドン・ロペが親戚の孤児で娘として引きとったトリスターナと男女の関係を持ってしまいます。あきらかに男が主で女が従の関係です。男は守護者として理解しているような口ぶりを見せても、現実は違い、精神的かつ肉体的な部分で支配をしています。

トリスターナは若い女性なので、当然、恋心も芽生え、街で出会った若い画家と駆け落ちのような形で家を出てしまいます。

しかし、後半、病気で元の家に戻ってきたトリスターナに、病気で足を切断しなくてはいけないという不幸が襲います。緊急に手術をしなくてはいけない、と展開し、あれ?もう手術は終わったの?という劇的な部分は描かれず、松葉づえのトリスターナが描かれます。この演出法、展開は独特ですね。

そのトリスターナの心は荒び、ひどい顔になっています。前半は主であったドン・ロペが老いも重なり、トリスターナのわがまま放題を受け入れています。つまり後半はトリスターナが主になりドン・ロペは従の関係性に変わっています。青色吐息で病床についているドン・ロペが、苦しいので医者を呼んでくれと言っても、トリスターナは架空の電話をしてしまう残酷性を見せます。憎悪、悪意、絶望を抱える女性に変貌してしまいます。

こうした一連の流れをトリスターナの復讐と見ることもできるのですが、それによって彼女の積年の恨みが果たされ幸せか?というのは大いに疑問の残る展開です。前半のトリスターナは可憐に描かれていましたが、後半は運命、宿命を呪うかのように人格が変貌していました。ある意味ありえる得る話のようにも思います。人生のいたずら、むごさ、リアルさを表現していると思いました。

ところでブニュエルは、調べるとスペインの代表的作家ガルドスの原作を映画化するにあたり大きく物語の展開を変えてしまっています。元はトリスターナの足の切断後は、信仰に目覚め熱心に教会に通い、バイオリン奏者となりドン・ロペともに高齢まで生きるという話ということらしい。大胆に変えてしまうのもブニュエルの真骨頂なのかもしれません。

ラストに映像が過去に遡る部分は、ある意味で斬新なのですが、これをどう解釈していくのか?運命論的な見方もできますし、教訓的でもありました。

<プロの眼>

●端的にいってこの斬られ首が意味するものは、ドン・ロペに対する去勢の願望である。トリスターナは意識のうえでは彼を父親として受け入れ、隷属の悦びを体験しているのであるが、無意識にあっては自分に最初に性的な体験を与えた男性への憎悪を深く抱いており、それが対象の死という形で夢に表象されたのだ。この無意識のうちに宿る憎悪が少しづつ、緩やかにではあるが確実に現われ出て、突然に現実世界に噴出を見るまでが『トリスターナ』の物語であると要約していい。

●苦悶に喘ぐトリスターナが戻ってくると、ただちに医師に診断させる。彼女の生命を救うためには右足を切断するしかないと、医師はドン・ロペに告げる。ブニュエルにおける足のフェティシズムがいよいよ頂点を迎えようとする瞬間である。靴下、ガーター、靴。素足・・・・・・そして究極のフェティッシュの対象としての義足が、フィルムにおいてついに登場することになるのだ。

●ここで結構式の教会における聖母の映像に戻ってみよう。トリスターナが胸を開けてサトゥルノに開示するショットの直後にこのショットが続くのは、両者が本質的に深い本質的に同質性を抱いていることを意味している。司祭から悪魔と罵られ、復讐心に満ちた隼脚の美女と、慈愛に満ち、人々に愛と祝福を与える無原罪の聖母とは、あらゆる点において対立する映像に他ならない。だがブニュエルはトリスターナに、松葉杖を両手にバルコニーから見下ろす姿勢をあえて取らせることで、彼女が築き上げる二等辺三角形の構図が、続く聖母マリアの像と相同的であることを強調する。この二人の女性は、光と影、生と死、貞淑と不貞、博愛と憎悪といった風に、ことごとく反目しあっているが、本質的に禁忌であるという点において分身の関係にある。 サトゥルノ がトリスターナの裸体を前に思わず後ずさりして身を隠したのは、それがもはや男性にとってのエロティックな対象であることをやめ、神聖な宗教的なものとして立ち現れたためである。

●冒頭とは逆のショットで終わる。あたかも書物の分厚い頁が逆向きに捲られて閉じられてしまうかのように、フィルムは冒頭に回帰し、自己完結の円環を閉じてしまう。それはあたかもこれまでわれわれが目の当たりにしてきたすべての映像が、実のところ一抹の夢でしかなかったといいたげなようだ。それは生の臨界に到達したトリスターナの、内面に映し出された記憶のスクリーンの巻き戻しであると同時に、具体的な映画上映の場でのフィルムの引き戻しでもあり、究極的には映画という表象体系がみずからに対して抱いている夢の完結を意味しているようにも思える。ここにもはやトリスターナの復讐物語はない。われわれが目の当たりにするのは、映画そのもの、純粋にして無償の戯れである。

※上記「ルイス・ブニュエル」四方田犬彦・著(作品社)から引用

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