背徳の幻想が馬車に乗ってやって来る・・・

映画「昼顔」(1967年)

ルイス・ブニュエル監督による1967年の元祖昼メロ?作品「昼顔」(第28回ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞受賞)は、カトリーヌ・ドヌーブの熱演に負うところが大きい映画。

今となってはどってことない表現ですが、公開当時としてはセンセーショナルな感じだったんじゃないかと想像します。背徳的な感じも、以後の様々な映画に影響を与えたんじゃないか、と思ったりします。

昼は娼婦に、夜は貞淑なブルジョア婦人、その二重生活のギャップが背徳的であり、性の問題、本音を正面から扱った、当時前衛の先端にいたブニュエルだから作ることができた映画なのかな、とも思えました。

妄想と現実が入り乱れ、錯綜する映像、ただそこには陰湿な感じがなくカラッとした印象も受けます。

私はカトリーヌ・ドヌーブの全盛期の映画をリアルタイムで見たわけではありませんが、ドヌーブと言えばこの「昼顔」と「シェリブールの雨傘」を想起します。いずれも極端な手法で印象的な女性像を表現した映画。

「昼顔」は興業的にもヒットしたと聞いたことがあります。映画は人の映し鏡、ならば大衆はこのような映画を望んでいたということですね。

<プロの眼>

●『昼顔』は公開に先立って、検閲により若干の映像の削除を強いられた。ドヌーヴ演じるヒロインが城館に招かれ、屍体愛好癖のある老貴族の奇怪な儀式に参加するさい、壁にグリューネバルトのキリスト磔刑図が飾られているというショットが、カトリックを侮辱するという理由から差し替えられたのである。にもかかわらず、このフィルムは完成した年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、国際的にももっとも大きな興行成績を収めたブニュエル作品となった。

●いったいどこからどこまでが夢、または妄想の場面であり、どのショットで主人公は現実に回帰することになるのか、それを見定めることがしだいに困難となっていく。あげくの果てには、彼女の主体としての一貫性を把握できなくなり、映画を観ている側の認識すら曖昧な形で置き去りにされてしまうことになる。

●『昼顔』のセヴリーヌは、二つの内的世界を同時に生きている。ひとつは現実に彼女が生きる実在の世界であり、もう一つは形でそこに挿入されてくる、夢、回想、妄想の世界である。フィルムの前半では両者は峻別が可能な形で語られているが、やがてその区分は曖昧となり、最終的には地と模様が容易に反転しあう騙し絵(トロンブルイユ)のように、朦朧とした結末を迎えることになる。

●ブニュエルは『昼顔』のテクストの」全体にわたって、さまざまに謎めいた記号を散布し、その反復と戯れている。

●もしブニュエルに文体というべきものが存在するとすれば、それはこうした物語の展開に際していかなる補足的映像に訴えず、無骨なまでに説明を拒否して、すべてを謎のままに留めておく手つきだろう。

●セヴリーヌという主人公はこのフィルムのなかで何をしているのだろうか。彼女は売春もしていなければ、夫を裏切りもしておらず、また彼を介護すらしていない。実は彼女はただきわめて個人的な映画を撮り、密かにそれに眺め入っていただけではないかと書いてみたい誘惑に、わたしは駆られている。『昼顔』とは、映画を観るという行為をめぐって映画が思考してみせた、メタレヴェルの構造をもったフィルムの試みである。映画体験の内側にはもはや夢も現実もない。なぜなら映画そのものが一つの巨大な夢に他ならないからだ。

※上記、「ルイス・ブニュエル」四方田犬彦・著(作品社)から引用

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