登場人物が関連性なく数珠つなぎで自由に展開する‟自由”を笑う?映画

映画「自由の幻想」(1974年)

■製作年:1974年
■監督:ルイス・ブニュエル
■出演:ジャン=クロード・ブリアリ、モニカ・ベッティ、ミシェル・ピッコリ、ジャン・ロシェフォール、他

全く予備知識なく見たため、いったいこれは何?の連続。見終えるとこの監督スゴイと、私的には言いたくなる映画でした。シュルレアリスムの映画監督とカテゴライズされるルイス・ブニュエルの映画は、これまでなんとなく見る機会もなく、また無理して見ようとしてこなかったのですが、ここへきていろいろなブニュエルの映画を見ているとどれも面白い!と感じるのです。

この「自由の幻想」も、展開されていく話を追っていくと、はっ?と言いたくなる見る側にズレを感じさせることが起きてきます。それはブラック・ユーモアであり、既成概念への疑問であり、価値感の転倒した映像であり、性的倒錯であり、だんだんと笑って楽しむしかないようになってくるのです。

今でこそシュールなお笑いは、普通と言えば普通な感じで驚かないのですが、公開当時、この「自由の幻想」が提供した世界観は、想像ですが多くのお笑い作家たちや芸術家たちに影響を与えたように思えてなりません。そしてその姿勢にたいしてもです。というのも、もし笑いたいと思う時人はお笑いのコンテンツを見るという前提があり、始まると人を笑わせるための工夫に乗って、非常識な展開を楽しみ、あ~面白かったと。さらに興行という形式をとっている場所にわざわざ行く場合は、寄席でも吉本新喜劇でも、お笑いの世界を楽しむために入場料を払って見に行くわけです。

が、この「自由の幻想」となるとちょっと事情が違うように思います。どのような宣伝でこの映画が公開されたかは、全く知る由がないのですが、少なくともブニュエルと言えばカンヌ映画祭などの賞を受賞しているわけですから、その手法はどうであれ世界的映画監督だし、まさか映画館でこの映画を観に行く時は、コメディ映画を見に行くような動機では行かないと思うんです。日本ではアート系の劇場で公開されたんじゃないかと思うんです。

フタを開けると、まさかの展開。ストリーはあるようでなく、登場人物のエピソードが関連性なく数珠つなぎように展開され、そこで繰り広げられる映像は、ただただ笑うしかない。笑うしかないんです。

「おい、自由ってなんだい?とりあえず、おいらも既成概念にとらわれず自由に映画を作って見たけど、どうかな~。おいらが作った映像くらいが、お金を払って映画館にきてくれたお客さんが、客席に座って見てくれる限界じゃないかな~?制作費も回収しないといけないしね。自由って難しいよな。君はどう?自由でいられているかい?だから、おいらは「自由の幻想」というタイトル付けたんだけど・・・ね。」そんな幻想の声を感じたくなるこの映画。

1974年にこんなあるいみでハチャメチャな映画を作っていたなんて、ブニュエル監督、いいなと思えるこの頃です。

<プロの眼>

●『自由の幻想』の語りを特徴づけているのは、挿話から挿話への横滑り手法、挿話同士の対照的な配置、そして監督の過去の作品からの自在な引用とそのモザイク的な提示である。・・・・・・・・カメラは人物にいつまでも焦点を投じているわけではない。画面のなかに偶然、誰かの別の人物が参入してくると、今度はいとも簡単にその人物を追い駆けてしまい、先の人物と彼が抱えている物語は、等閑にされたまま忘れ去られてしまう。

●『自由の幻想』というフィルムのなかではいかなる重力もないまま、奇妙な浮遊感覚のうちに移ろってゆく。哲学者のパースに、人間の認識は「シニフィアンの連鎖」であるという著名な指摘がある。ある言葉Aの意味内容(シニフィエ)Bを探求しようとすると、その意味内容Bが別の意味内容(シニフィアン)Cとなり、さらにCの意味内容Dが新たなる意味表現Eを招くといった具合に、意味を探求する人間の行為は無限に連鎖していって、終わるところがないという考え方である。『自由の幻想』のどこまでも上滑りしてゆく説話行為には、このパースに認識論を想起させるところがある。

●一つは『自由の幻想』というフィルムの全体を支配しているのが、大きな意味において夢の論理であるという点である。・・・・・・超自我は無意識のうちに貯えられてきた記憶のいくらかを検閲し、それが夢として表象されることを妨害する。隠蔽された映像は途中で圧縮され、謎めいた隠喩的様相、すなわち「象徴」を形成するか、でなければ継起的な秩序のなかで別の映像に置き換えられていく。『自由の幻想』における挿話から別の挿話への突然の移行は、まさしくこの置換の場合に相当している。・・・・・・この奇矯な語りをめぐるもうひとつの解釈は、テクストの語り手に神に紛うべき全能の視点を賦与することである。彼は人間たちの世界を、完璧に外側から観察する力を与えられている。『自由の幻想』ではいかなる登場人物も自分自身の物語の主人ではなく、それをも把握もできなければ操作もできない。彼らは何も決定できないまま、行き当たりばったりの偶然に身を任せていくしかない。

●フィルムの前半で語られているのは、もっぱら日常世界ではありえない世界の転倒、あべこべの世界、つまりバフチンの語を用いるならば、カーニヴァル的な秩序転覆の様相である。・・・・・・後半で中心となるのは、ルイス・キャロルの世界に通じるような、論理的な矛盾であり、憧着である。

●映画人としての生涯の終わりに際して、これまでの作品に登場した主だったオブジェを蒐集し、コンパクトに縮めて整理保存しておきたいという願望の現れであるかもしれない。みずからの作品のミニアチュールをそっとテクストの内側に忍び込ませ、作品が内に含む時間を豊かで多元的なものに仕立てあげること。これこそ晩年に到達したブニュエルの思いついた、慎ましやかな愉しみであったのだ。

●ブニュエルがこのフィルムにおいて主眼に置いたことは、一方で自由という観念の幻想に囚われる人間の愚を嘲弄し、その神話のヴェイルを剥ぐことであり、同時に現実を前にした躊躇に由来する幻想性を、きわめて洗練された手法のもとに観客に体験させることであった。

※「ルイス・ブニュエル」四方田犬彦・著(作品社)から引用

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