一見でたらめに見える逆転こそが社会矛盾を告発する手段か

『新釈 四谷怪談』小林恭二(新潮社新書)

映画ではなく歌舞伎による鶴屋南北の「東海道四谷怪談」を観たときは、強烈な印象を受けました。というのも、この話はお岩さんの幽霊しか知らなかったで、実はもっと奥深い話があったことをそこで知ったからです。鶴屋南北という、今で言う劇作家も、すごいストーリーテラーということも合わせて知り、鶴屋南北という名前が俄然、私のなかで注目すべき人物とクローズアップされたのです。

少なくともこの四谷怪談は怖いだけではない重層的で生々しいまでの業が見事に描かれていると。そこで今回は四谷怪談について書かれた本に関する覚え書きメモのようなものとしました。著者の言葉をボクなりにアレンジしまとめたものとなります。


◆文政8年(1825年)江戸中村座で“日本歌舞伎史上最大級の傑作”(著者の表現)「東海道四谷怪談」(以後、四谷怪談)が上演された。それは、最初に忠臣蔵の前半部分を、その後で四谷怪談の前半部分を上演し、その翌日に同じ忠臣蔵と四谷怪談の後半部分を上演するという方法が取られたという。それは四谷怪談を忠臣蔵のネガとすることで、鶴屋南北のメタフィクショナルな性向を前面に押し出すことができた。

◆南北には聖を俗に、貴を賎に変換したい欲求があった。それは武家の娘で健気で誇り高いお袖が按摩の私娼窟に出ているという場面を描いていることからも見てとれる。扇情的といえば扇情的、下品といえばまことに下品。それは南北の賎民もしくはそれにきわめて近い出自であったことによる。南北の聖俗混淆趣味はそうした出自の中からはぐくまれたものに違いない。

◆直助は愛に生きる男であるのに対して、伊右衛門は物欲に生きる男。お岩さんを無闇に欲しがったのも、美人で見映えのいい彼女をただ自分のものにしたかっただけ。お岩さんが後に怨霊に変身するのは、伊右衛門に愛の焔を見る事ができなかったから成仏のしようもなく、なるべくしてなったのだ。一方の伊右衛門は腐敗した精神ゆえに妖気を発しており、いきながら化け物の世界に入っているのだ。

◆孫娘のお梅が伊右衛門に恋をした伊藤喜兵衛、自殺もしかねない勢いなので、お岩に血の道の妙薬と称して毒を盛った。その真意はかわいい孫娘のために伊右衛門に対して妻を捨ててお梅と夫婦になってくれというもの、そして伊右衛門がその決断がしやすいように、お岩の容貌を破壊してしまおうというのだ。「命に別状ない薬だから、殺そうというわけでもなし、よもや罪にはなるまい」などとほざいてみたりする。世に悪謀は数々あれど伊藤喜兵衛のそれほどひどいものもざらにないのではないだろうか。そこには、南北の「武士と威張っていても、その内実は、俺達よりも数段汚い奴等なのさ」という叫びを見て取ることができる。

◆お岩さんが死んだ後、猫がその死骸をかじろうとしたが巨大な鼠が現れ猫を殺してしまう場面がある。それはまず、お岩さんが子年の生まれで、鼠は彼女の化身だからと見ることができるが、そこで注目すべきはこれより世界がすべて逆さまになるという南北の宣言であるということだ。この世界にあって、鼠は猫を食い殺し、男は女性に取り殺され、賎は貴となり、封建世界における序列は逆転するのである。

◆四谷に伝わるお岩さまに関する伝説には、大層な醜音女であったという話と田宮家を最興を支えた貞女であったという説があるが、著者の小林恭三は後者を取る。その理由のひとつとして、お岩さんが御家人の家庭であったということ。当時の御家人とは武士とはいえ最貧困層であった。すすんで御家人の嫁になろうなんて奇特な女性はいなかったのだ。貰い手のいない不器用な娘が妻となった。そうしたなか借金苦を克服した賢婦人のお岩さんは、御家人の内儀から熱心な信仰を受けることとなる。お岩さんはそうした彼女らの心の叫び、敬虔な祈りを聞き続けたのである。それに南北は目をつけたが、お岩さんは南北の目論見を遥かに超え、日本最大級の祟り神として君臨することになった。その力の源泉には御家人とその家族の深甚な怨嗟にあったのである。

◆南北は異様に下積み時代が長かった。それには、国語的教養がほとんどなかったこと。そして彼の出自にあった。寛政の改革で南北の出身階級である紺屋職は賎民頭の支配から脱することとなった。それとほぼ同時期に南北は出世することとなる。厳格に固定されていた江戸の身分制度の中で、賎民から平民へというコペルニクス的身分変化を経験するというのは稀有な体験であった。その経験が貴も賎も所詮相対的なことにすぎないということを悟ることになる。南北の演劇には階級の突破、性別の交流、幽界と人間界の入り混じりといった現象がよく登場するが、それは劇的な身分変化によって生まれた発想だった。南北が幽霊を登場させるとき、そこにはたいがい賎民の影がある。

◆生半可な現実よりも、むしろ多重な意味を身にまとう「象徴」に欲情するという南北の性情は押さえておく必要がある。

◆お岩さんが伊右衛門の母親・お熊を襲う場面がある。伊右衛門は、庵室の善男善女にお熊を助けるために百万遍を頼む。そこで彼女を守るよう大数珠で囲み一同一心不乱に念仏を唱えるも、お岩さんにはその念仏も役に立たず、お熊の喉笛に噛みつくと食い殺してしまう。このすさまじい場面にはふたつの異様性がある。ひとつめは、お岩さんが喉笛に噛みついて人を殺すという、幽霊の分限を大幅に越境する行動をとっているということ。この瞬間に、お岩さんは明確に物理的怪物たるお化けに変貌したのである。それは度を越した野蛮性、暴力性を得たということを示している。ふたつめは、その越境が善男善女による「南無阿弥陀仏」の朗読の中、公然と行われたことだ。念仏の前ではあらゆる怪異は無効となるはずだった。しかしその暗黙の了解が無惨にも踏みにじられる。これはお岩さんの力が、宗教をも超えたことを暗示している。もはや何物にも束縛されないお岩さん。江戸の観客が、南北の生み出した従来の権威をことごとく踏みにじってゆくスーパーヒーローに拍手したのは、日常の鬱憤を晴らすための悪ノリではなく、従来的な権威に盲従しないという覚悟によるものであったと著者は考えている。

◆キャラクターとしてのお岩さんに両親がいるとすれば、父親は小幡子平次(精神の産物の幽霊が、実力行使を厭わない凶悪なお化けへと変化した)と、母親は累(かさね伝説)である。累は祟るのは女性だが、お岩さんは怒りが男性に向けられている。社会全体に覆う男性原理に対する怒りの方が大きい。お岩さんは誰彼問わず卑劣な男性は殺してしまう。極言すれば一種の装置であり、個人的感情を超越した存在となっている。そこが個人的怨念の枠を超えることのなかった累との違いといえる。お岩さんは装置であるからこそ、万人に祟りを下す祟り神たりえた。

◆日本でもっとも名の知られた祟り神は、菅原道真、平将門、そしてお岩さん。

◆お岩さんが守護しているのは、大きくふたつある。ひとつは女性、もうひとつが演劇である。お岩さん以前に半ば公然と男性に復讐した女性はいない。お岩さんは男性を告発するために作られた存在なのである。彼女に対してより大きな力を与えたのは、女性であった。もっとも最近はお岩さんを女性の守護神として見る向きは減ってきたが。現在際だっているのは、演劇の守護神としての一面である。

◆南北は使用可能なあらゆる意味や象徴を駆使して、四谷怪談におけるお岩さん、伊右衛門の善悪を逆転させてしまった。その結果、怪物化した怨霊が善、生身の人間である夫が悪という前代未聞の世界が誕生したのだ。江戸中の外れ者がこうした世界観に拍手喝采したのは想像にかたくない。一見でたらめに見える逆転こそが社会矛盾を告発する唯一の手段であったからだ。南北にとってお岩さんを成仏させるよりも、逆転を逆転として提示することの方がはるかに重要であったに違いない。だから伊右衛門を殺して、お岩さまを成仏させて「完成」とするわけにはいかなかった。完成して、世界の秩序に合流してしまえば、世のしいたげられた人々の励ましにはなりえないから。

新釈四谷怪談 (集英社新書)

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