妖怪はキャラが立ったモノに対する修飾語?

『妖怪の理 妖怪の檻』京極夏彦(角川文庫)

独特の作風が人気の小説家・京極夏彦氏による妖怪論「妖怪の理 妖怪の檻」は、文庫本にして500ページを超えるそれは読みごたえのあるものでした。

内容も驚くほどに、妖怪についてマニアックな視点からも捉えており、京極氏の小説のベースにあるものが、氏がテーマとしているジャンルについて長年に渡り集められた膨大なる資料と、それらによる知識の蓄積により築き上げられたものであることがよくわかります。まさにそれは鉄人的とも言えます。

そうした観点から見ると三度の飯より妖怪が好きといったくらいの姿勢でないと書けない内容でしょう。そこにクリエイティブな能力も加わるので、下手な学者の上を行っていると思います。

そのレベルにおいて京極氏は遥か彼方に存在し、とてもじゃないけれどポッと出の妖怪をテーマとした作家は敵わない、京極氏は全く稀有な作家であることがわかるのです。

基本的に京極氏は妖怪について、その論旨をかなり詳細に進めているのですが、最終的には妖怪を定義できないとしています。

日本妖怪研究において必ずその名前を見ることができる井上円了江馬務柳田國男といった先人の妖怪研究を事細かく分析。彼ら研究者は妖怪をどのように定義していたのか、それらの矛盾や功績をしっかりと上げながらも、現代人において妖怪のイメージを植え付けるに決定的な役割をはたした「ゲゲゲの鬼太郎」でお馴染みの水木しげるの仕事に言及していきます。

びっくりするのは鬼太郎が当時の子供達に受け入れられた背景の、少年雑誌やその付録として市場に流れたグッズにまで分析の目は届いており、こうだからこうなのだと論旨を進めているところです。

かなりマニアック!

そして、妖怪を定義できないと言っても、長い長い論調の果てに、京極氏は次の3点を上げています。

1.妖怪は“前近代”的である。

2.妖怪は“(柳田)民俗学”と関わりがある。

3.妖怪は“通俗的”である。

この条件を満たしている場合、その対象を「妖怪」あるいは「妖怪的」と判断しているのだろうとしています。そうであるならば、通俗的な妖怪は必ずしも不思議である必要もないし、怪しくある必要もない。

それらの条件を満たしたキャラクター=モノを主に「妖怪」と呼んでいるし、また、文脈の中で「妖怪」という言葉を接続した瞬間に、モノを示さない言葉も「モノ化」してしまう。

妖怪という言葉は江戸から現代に至るまでの長い時間をかけてきたものの、結局、現状は明確に何も示してはいない。それは、ただ、ある条件を満たす印象をもたらすモノゴトに対して適用されるだけの言葉でしかないのだと結論づけているのでした。

これはなるほどと納得のいく論旨。京極氏が言うように妖怪=キャラクター=モノであるならば、それは民俗学の領域にありながらも、通俗的娯楽的な世界の両方にまたがる存在ということになるでしょう。

妖怪という言葉自体がキャラを持っている。なので、昭和の妖怪と評される政界の黒幕も、キャラのたった存在として形容詞的に妖怪という言葉は使われていますね。

<本書の気づき>

京極氏は以下のように書いています。

『社会を構成しているほとんどのモノゴトは〝妖怪的な要素〟や〝妖怪的な側面〟を潜在的に内包しています。それは、通常、あまり意識されることはありません。ただ、それが「顕在化し易い状況」は折に触れ発生するようです。』

⇒ 世の中の見えない仕組み、裏側にうごめいいているものは?それが何らかの形で噴出しニュースとなることがある。政界には妖怪が跋扈している。

文庫版 妖怪の理 妖怪の檻 (角川文庫)

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