フランス現代思想とチベット密教のミシン台における幸福な出会い?

『チベットのモーツアルト』中沢新一(講談社学術文庫)

著名な人類学者・中沢新一氏の「チベットのモーツァルト」(講談社学術文庫)を読みました。この本は1983年に発売され浅田彰氏の「構造と力」とともにニューアカデミズムと評され、地味な学術的な分野で話題になりました。当時はまだ学生だった私ですが、本屋で手にとっても、これは難しそう・・・と購入までには至らなかった本です。

40年近く前に(古い話ですね)話題になったし、その後の中沢氏の活躍の契機ともなり得た本なので「チベットのモーツァルト」という題名はよく覚えていても、実際に読んで見ると想像していたものとは大違いだったのに、今回気づきました。

まずタイトルのチベットのモーツァルトとは記号学者のジュリア・クリスティヴァの論文「ポリローグ」の中のフィリップ・ソレルスの小説「H」における音楽性について、そのクリスティヴァが「チベットのモーツァルトのような」と形容しているとこからきているということ。(そういえばクリスティヴァという名前も当時書店でよく見かけたような・・・今は書店で見かけないですね)

「チベットのモーツァルト」はチベット密教のことを書いているのかなと思いきや、メインはクリスティヴァについて書かれたものだったのです。むしろ、中沢氏は違った意味を込めてこの言葉を選んだということです。

中沢氏はネパールでチベット密教を学んだわけで、それが当時の彼の一つの売りであったので、後半はチベット密教に言及する部分、それも不思議というか、驚くような箇所もでて来て興味深いのですが、印象としてはフランスの現代思想とチベット密教を融合させたような印象を持ちました。

まだ、中沢氏も若く、尖がっている感じで、あえてそうしてるんかい?と言いたくなるような、その文章は意図的にか?実に難しいのです。ここまで流暢で、ある意味言葉の魔術師、あるいは芸術家のような文章を書くことができるともいえる彼は、天才的だなと感心しつつも、私には読解力の無さを逆に感じてしまうという始末・・・。

たとえばこんな文章があります。『空を横切る光がそこに溝や痕跡を刻み込んだとき、無の連続体から「起源における粒子」ともいうべきモナドがとびだしてきたとき、そして無限の多様体に位相的なねじれを加える「点」があらわれたとき、それを無邪気に笑う笑いなのだ。』

これはチベット密教ゾクチェンにおける深い瞑想体験、神秘的な感覚を言語化したものなのかな?と、私の疑問符は果てしなく続く・・・。

中沢氏の言葉は、始まりの始まり、始原的、原初的な、宇宙創成的なイメージがなんとなく湧くのですが、それがどの程度確かなものなのかが、実際私にはわかりません。もっと簡単な言葉で語ってほしいと・・・、私の心は、深い部分でそう言うのでした(笑)

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

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