ビバ、フェリーニ!道化師たちの中心と周縁の円環的祝祭空間

映画「フェリーニの道化師」(1970年)

■製作年:1970年
■監督:フェデリコ・フェリーニ
■出演:フェデリコ・フェリーニ、アニタ・エクバーグ、ピエール・エテックス、他

映画「フェリーニの道化師」は、その後の作品スタイルにも影響を与えることになる、どこまでがフィクションで?、どこまでがノンフィクションなのか?、その境界が曖昧模糊としていて渾然一体となった作劇法で描かれたとても不思議な作品です。

フェデリコ・フェリーニはサーカスから大きな影響を受けていることは有名な話であり、作品を見ていればそこかしこにその痕跡をみることができます。なかでも道化師には一際影響を受けており、この作品では、ズバリそのものをテーマに持ってきています。

フェリーニは自身のサーカスへの思い出を幻想的なタッチで映像化したり、撮影クルーとともに伝説の道化師達を訪ねその様子を映像化したりと、そこには成り行き任せ感が漂っているのですが、それで作品が破綻してしまっているという訳ではありません。むしろそれにより、フェリーニの構成力というのが際立っていると感じることができると思います。これはすごい才能だと思います。

フェリーニはカメラマンらとともに往年の道化師のスターを取材していくのですが、映像に出てくる彼らは、年老いて、サーカスの黄金期が過ぎ去ったことを、見ているものは感じとることができます。それはサーカスから映画へ、映画からテレビへ、そしてテレビからインターネットへと、エンターテイメントは時代の影響を受けながら、時々の王者を変化させてきています。あきらかなのは、気軽さという点でしょう。今はスマホで簡単に映像をみることができるからです。しかし、そこには磨かれた芸、熟練したパフォーマンス、リアルな場での感動や笑いの波動の共感というものは、どんどん薄れていっています。

ところで、この映画では同じフェリーニの映画「甘い生活」に出演したアニタ・エクバークが出ています。フェリーニ監督のミューズの一人ですね。

道化師には映画にも出てきますが、人間の素晴らしさを謳う「白い道化師(ホワイトクラウン)」と、人間の醜い現実を表現しだぶだぶズボンとどた靴の「オーギュスト」の2つの側面があります。フェリーニはオーギュストを愛していたそうですが、ラストシーンは、道化師らの乱痴気騒ぎが終わり、誰もいなくなり静まりかえったサーカスのテントで、この2つのキャラクターの道化師がニーノ・ロータの哀愁漂う曲をトランペットを吹きながら楽屋へと消えていくシーンは秀逸な名場面と思います。


ところで私は、当時発売された映画関係のオピニオン誌「キネマ旬報」の記事を切り取って保存していました。その中で文化人類学で有名な学者であった山口昌男氏の寄稿がありました。山口氏の考え方として「中心」と「周縁」というものがありますが、サーカス空間において綱渡りというスター役が「中心」占め、地上のドジ役として道化は「周縁」にいるという象徴空間からなっているとしています。さらに山口は道化について以下のように書いています。

『道化は、本来人々が深刻だと思っているものを一瞬にして無価値なものに転じ、笑いを介して、無価値なものの中に潜む無限の価値を曳き出す奇術師だったのである。・・・・・・賢者と愚者、利口と馬鹿、真面目と不真面目、仕事と遊戯、熟練と未熟、老年と幼年、人間と動物、文化と自然、中心と周縁、精神と肉体、高尚と低俗、秩序と混沌、釣り合いと不釣り合い、ルールと販促、こういった人為的差異、人が分別と呼んでいるものを道化は次々にぶち壊していく。その際道化は常に後者から出発して、前者も己の遊戯圏に取り込んでしまう。・・・・・・道化は身体と言葉を使って世界を脱臼させ、この世界を構成するもろもろの事物を、己の遊戯空間に投入する。』( 「キネマ旬報」1976年12月上旬号NO.696から引用)

ラストシーンは上記にも書いたように、2人の道化がサーカスのテントの中のリングをトランペットを吹きながら消えていく印象的な終わり方をしていますが、山口氏はそれについて『円環はすべての対立を解消させ、人を、その経験の最も始原的な時空へと連れ戻す』(引用、上記同様)と書いていますが、そうなんだよな、フェリーニのこの感覚が好きなんだよなと思うのでした。

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