幽玄の気分を見事に表現した日本映画史に残る映画
映画「雨月物語」(1953年)
■製作年:1953年
■監督:溝口健二
■出演:京マチ子、田中絹代、森雅之、小沢栄、他
映画というものは観る時の年齢や状況によって印象が変わるなー、とこの「雨月物語」を観てつくずく思いました。というのも日本映画史上に残る名作として、20代後半にビデオを借りてきて観た記憶がある。その時は独特のカメラの長回しが正直かったるかったり、物語も教条的でさほどおもしろいとは感じなかったのです。
それが今回20数年後、今度はDVD(時代も変化し)で観たのですが、あの長たらしく思えたカメラワークによる映像が、緊張感と美しさを生み出しており素晴らしく感じたのです。(でも思っていたよりそんなに多くはなかったですが・・・)また押し付けがましく思えた話も実は劇的な展開と共に味わい深く奥行きもあることに気がついたのです。一体20代の頃は何を観ていたんだろうと当時の自分を疑いました。物語の中に身を委ねていく心地よさ、そんな感覚をこの映画から得たのです。
著名な映画評論家の佐藤忠男氏が著書「溝口健二の世界」の中でこの「雨月物語」は“幽玄の気分を表現することに成功している”と書いているように、映画はストーリー、役者、美術、音楽、カメラ・・・といったすべてが交響曲のように響きあい、佐藤氏が指摘するように、まさに「幽玄」というしか言いようのない不可思議な世界を構築していると思えたのであります。画面に映っているのはまるで墨絵のようでもあります。
そしてそこで展開される物語はこの世ではないような主人公の源十郎(森雅之)は、京マチ子演じる若狭と田中絹代演じる宮木の全くタイプの違う幽霊に遭遇する。若狭のほうは若くして亡びた一族の姫の霊で、男女の仲を築く前に死んだため、源十郎を情欲の世界へと誘い込む。そして彼もその誘いに乗ってしまう。ある意味で女性の持つ魔性の側面を象徴的に描いた存在である。一方の宮木は良妻賢母型の家族を暖かく見守る聖なる女性に通じていくような存在である。宮木は悪さをする霊などではなく、舞台となった戦乱の世を嫌う想いを持った霊なのだ。創られた世界は幽玄の世界、男は肉体が消え霊的な存在となった女を行き来する、それが見事に溶け込んでいた。
ちなみにこの「雨月物語」に対して学者が古典をけがすものであると批判を受けたそうであるが、“(原作の上田)秋成が中国の原典から、まったく別のものをたてたように、わたしたちが、秋成から彼のイメージをもとにして、別のものを作ったとしても秋成の作は、少しも汚したことにはならないと思います。次々とたくさんなイメージを持たせるものが凝集しているということで、雨月物語は、古典として絶品だといえるのではないでしょうか。原典と秋成との間のディスタンスこそが、彼の偉大さを意味するわけで、この場合原典は触媒に過ぎないでしょう。”とこの映画のシナリオに賛歌した依田義賢は書いている。(「溝口健二の人と芸術」引用)
まだまだ1950年代という時代は、古典を原作としそれをアレンジしていくことに対してアレルギーがあったんですね。