澁澤龍彦の「エロスの解剖」は、猥雑性を無化する・・・

澁澤龍彦が「エロスの解剖」と題してエロティックな世界のことを書いても不思議といやらしさがないのは、そこに感覚に関する表現はあっても、情動に関する記載がなされていないからだろう。それと澁澤流とも言うべき、延々と列記されたエロスに関する博物誌的情報が、本来テーマ的に持っている猥雑性を、ひとつひとつ無化していっているようにも感じるのです。だから、たとえばオルガスムとか、サド=マゾといった、ずばりの話題を設定してあっても、読んでいても、動物や地理に関する博物的書物を読んでいるのと同じような感じなのであります。

むしろ澁澤が提示するウンチク的な情報によって、今まさに本を読んでいる私という存在に、根源的に備わっている自身の性的嗜好性が、延々と続く固有名詞によって、やがて浄化されてくる気がするわけです。かつて先達はかくもエロスについてこだわり、工夫を凝らしてきたのかと感服、関心するしかない。自分の中に存在するエロスの種は、すべてかつてあったものの焼き直しなのだと、それはすべて存在した円環の中にあるということです。そう思うと極端な方向にエロスのベクトルが向いてしまっている人も、それは生きている証なのだとこれらの博物誌的情報は語りかけるのである。それはまるで血液型による性格判断にも似たような標本体系の中の一類型にも思えてくるのであります。

ところで、この本の冒頭に言及されている性差論は何故か安心感を覚えるのでした。

“男の性的器官は、あえて言えば、肉体から突起し分離した、外からの付加物とも称することができるのに、女性のそれは、肉体の奥処に深く埋没しているのである。男のセクシャリティには一定の距離があるから、彼は、この距離を知ることができるが、女は、隠れた自己のセクシャリティに対して、完全に意識的であるこはむずかしいと言わねばならない。女性特有の、ほとんど無意識的なナルシシズムも、ここから生ずるだろう。女のナルシシズムとは、いわば自己の内部に潜在していて、いつでも男に与えることができる快楽の、可能性の感覚なのだ。

女の性とは、だから、一言をもって定義するならば、欲望されるところのものである。他者への依存性、つまり「娼婦」性こそ、女性的宇宙を特徴づけるものにはほかならい。・・・もちろん、娼婦と言ったからとて、この言葉に貶下的な意味をこめているわけではなく、ただ、男性が自己の裡にその原理を所有しているのに対して、女性はその原理を他者の裡に託さざるを得ない、といったほどの意味であると御承知おき願いたい。” 
※澁澤龍彦著「エロスの解剖」から引用

一応、マナーとして?最後にことわりを入れているのは紳士の証・・・か?

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