快楽主義の哲学はメメント・モリ(死を想え)?
「快楽主義の哲学」澁澤龍彦(文春文庫)
この本の最後の浅羽通明さんという方の解説によると、「快楽主義の哲学」は、1965年にもともとはカッパブックスから刊行されたそうだ。カッパブックスといえば大衆実用書で知られた、澁澤さん、そういうものにも書いていたの?そのためか文体は通常とは違い平易でわかりやすい。少々警告的で押し付けがましかったりします。鎌倉に自宅を持つための頭金のために書いたらしい。ともあれ、この本は澁澤龍彦の他の作品とは一風趣が違うのです。
ところで本の出だしはいきなり「人生は目的がない」とインパクトがあります。生きている目的を探すから逆に辛くなる、苦しくなる。実は目的なんかないんだよ、となれば、気が楽なもんです。流されるままに身を委ねていけばそれでよい。ならばどうしたらよい?澁澤は、幸福と快楽の違いを述べた後、本のタイトルにあるとおり快楽主義で行こうよと提案します。では、快楽って何?それは本の最後にあります。
「快楽とは発見である」
快楽は自分でさがして味わうものであると。本を読み終えて、1965年に書かれたのでその感覚の古さは隠せない。澁澤が提唱したことも、その後の怒涛のような消費社会の展開に、飲み込まれてしまった感はいなめません。
ただ時代の影響を受けているにせよ、人生に臨む姿勢は変わらない。生きるとは瞬間瞬間の積み重ねであるならば、それに彩りを添える快楽は、まるで美味しい食事のようなものなんだと。
●最初に身の蓋もないようなことをいってしまえば、人間の生活には、目的なんかないのです。人間は動物の一種ですから、食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけの話です。
●たとえ一瞬の陶酔であっても、その強烈さ、熱度、重量感、恍惚感は、なまぬるい幸福など束にしてもおよばないほどの、めざましい満足を与えます。
●快楽とは、瞬間的にぱっと燃えあがり、おどろくべき熱度に達し、みるみる燃えきってしまう花火のようなものです。それたしかに夢のようなものですが、それだけに、はげしい起伏があり、人間を行動に駆り立てる美しさ、力強さがあります。
●幸福のことなんか頭の中から追い出して、まず実際に行動すること。そうすれば、楽しさはあとからやってきます。
●新たな快楽に立ち向かうためにも、休息が必要です。社会生活を営んでいる以上、退屈に耐える力というものを知らねばなりません。
●あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、一番強度なものであり、かついちばん根源的なものだ
以上、「快楽主義の哲学」澁澤龍彦(文春文庫)より引用
ところで、澁澤は快楽主義を語るにあたり、人間の限界をつきやぶれ、人間を人間以上の存在に、と書き、そのためには、いかに死ぬかという重要性を語り、自分の死を金融資本の手に渡すなと。そこで死の原理を中核とする哲学を打ち立てるときであると、以下のように書いています。
死とエロスは、楯の両面です。情死の問題などはその両極端な一例にすぎません。つくづく思うのですが、宗教ではなくて、人間の死に対する意識を根底的に変革することができるような、なにか予測しがたい新しい魂の科学は発見されないものでしょうか?そういう科学を、ぜひとも緊急に作り出すべきではありますまいか。
そして魂の科学積極的に作り上げてきた先人として、「中世錬金術、グノーシス教の魔術師の理想、インドのヨガ行者の理想、自力宗の即身成仏の理想、ニーチェの超人の理想、ランボーの見者の理想」などをあげて、「人間にとって最後の貴重な財産は、じつは生命ではなくて死なのではないか」とも主張しています。
私は澁澤に全く同感というわけではないのですが、無意識に澁澤龍彦の本を選択して読んでいるということにおいて、もしかしたら潜在的な部分でその指向性が似ているのかもしれないと思ったりします。というのは、澁澤が死の重要性を問うたわけですが、私自身、51コラボの企画で「聖なる次元へ ~様々な死生観を巡って~」という死生観をテーマとしたオンライン映像を配信しているということは、そこにそれなるのエネルギーを注ぐわけですから、死というものの重要性を意識的、無意識的にも感じているんだと思うのです。
人生は澁澤がいうように、無目的ならば、無目的なゴールとなる死を見つめ、自分なりの死の哲学を構築し、死へと向かうその過程において森羅万象の現象に自分が「快」と感じるものを探して、自分らしくハレとケの時間を生き、与えられた今という時間を後悔しないように生きようぜ!というようなメッセージを受け取った気がします。