自己の存在を無理やり問われ惑う映画「惑星ソラリス」

映画「惑星ソラリス」(1972年)

■製作年:1972年
■監督:アンドレイ・タルコフスキー
■出演:ナターリヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルベット、他

アンドレイ・タルコフスキー、映画というエンターテイメント的要素も多い表現において、芸術的要素が強い作風の映画監督がタルコフスキーといえるんじゃないかと思います。それは、抑えたテンポで淡々と静謐な時間が流れる画面に象徴され、映画監督の 石井 聰(岳龍)氏が「スリリングに眠い」(「タルコフスキー、好き」より)と評しているように、どうしょうもなく睡魔に襲われるのがタルコフスキーの映画といえると思います。その粛々と流れる映像は、見るものに否が応でも思索を要求してくるものの、同時にウトウとさせてしまう、それがタルコフスキーの特徴といえるのではないでしょうか?

この「惑星ソラリス」は、私という存在を揺るがし、問いかけてくる哲学的な作品。SF映画の傑作として「2001年宇宙の旅」と全くテイストが違うものの双璧をなす伝説的な作品といえるでしょう。ソラリスを探索する宇宙ステーションという閉塞的な空間に起こる尋常ではない現象。それがシンシンという言葉があてはまるかのような展開で進むのです。

ソラリスの海は、人の触れられたくない過去のトラウマ的な出来事にかかわった記憶領域に侵入し、トラウマ的な人物を量子的レベルで再構成させ目の前に登場させる。もし、地球から遠く離れた宇宙のソラリスという惑星に浮かぶ宇宙ステーションの飛行士の部屋に、目覚めたら、いるはずのないそのトラウマ的人物がいたとしたら?そしてそれが幻影でもなく、記憶の中と同じ服を着たリアルな実体として現れたら?それは恐怖であり、混乱であることは間違いない。映画では飛行士の妻でちょっとした原因で喧嘩になり、無意識に吐いた暴言が原因で彼女が自殺してしまう。長く自戒の念が強く悩み続けたまさしく当の人物がなぜか、ありえないステーションの空間にいる・・・。

ひと時も離れたくないと飛行士が部屋を出ようとすると、女性は血だらけになりながら鋼鉄のドアを破り迫ってくる。そして、その傷も時間とともに癒えてしまう。その力も、その蘇生力も間違いなく人間ではない。しかし、トラウマにかかわる人物ゆえに、自分の心というものが反応し、ぞんざいに扱うことができない。そしてどうやらその女性は眠ることがない。

あるいは、飛行士がロケットにその女性を閉じ込めて宇宙空間に発射させて、ステーションから出してしまっても、翌日目覚めると何事もなかったように、そのトラウマ的人物、彼女は座っているのだ。これはSFとう名を借りた心理劇、深層心理劇であり、人間とは何か、存在とは何かを問いかける映画となっているのです。タルコフスキーはそうした異常な現象を大げさにではなく、淡々と描くためによりその問いかけが、強調させられてくるのです。これがもしハリウッドテイストの映像で作られたとしたら、ここまで映画史に残りえる作品とはならなかったでしょう。

やがて飛行士とその女性は愛情を育む関係となるも、彼女が自分自身の存在について疑問を持ち、出現の様々な事実を知ってしまい飛行士を苦しめたくないと、自らの存在を消してしまうわけですが、そうした一連の心理の流れをどう受け止めていけばいいのだろうか?ここで一連の心理とは人間である飛行士の心理のこと、というのも女性はそもそも人間ではなく記憶から作られた得体のしれないなにものなのだから。人が生きている限り終わることのない内省のドラマ。

彼女が消えた、後映像は故郷の父や母が住む家の場面となる、しかし、異常な形で天井から父の背中に雨が降り注いでいる。おかしい・・・。両親や犬を映し、家を映し、庭を映し、どんどん俯瞰していくとそれはソラリスの海に浮かんでいるという衝撃。飛行士のノスタルジックな記憶や想いがソラリスの海が再現してしまい、心象の中の永遠のループに飲み込まれてしまうという地獄。「惑星ソラリス」はSF映画という形の解決が見えない心象映画といえるでしょう。

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