絶望と希望の心象風景か?映画「サクリファイス」

映画「サクリファイス」(1986年)

■製作年:1986年
■監督:アンドレイ・タルコフスキー
■出演:エルランド・ヨセフソン、スーザン・フリートウッド、アラン・エドワール、他

アンドレイ・タルコフスキーの映画は1ショットが恐ろしく長い、ゆったり、じわじわとカメラは回り場面を形成します。なのでその映像における微妙な変化を見ていかねばならないのである意味で、飽きてしまう、退屈であるという感覚と同時に、難しくも感じてしまうのです。

ところでこの「サクリファイス」では尺八の音が使われています。音源は海童道祖(わだづみどうそ)という方の尺八(海童道祖は尺八ではなく法竹と呼んだ)で、その海童道祖は前衛音楽家のジョン・ケージや現代音楽のたけみつ徹といった世界的なそうそうたる音楽家に高く評価され、尺八音楽の世界では一世を風靡した人物です。

実は私、晩年の海童道祖のライブを企画したことがあるのです。その時に「サクリファイス」の音楽に自分の曲が無断で使用されたとボヤいていたのを記憶しています。タルコフスキーは世界的な映画監督として知られていたので、私も海童道祖の名前は印象深く覚えているし、著作物問題が言われ始めた頃なので、そうなんだーとよく覚えているのです。

この「サクリファイス」は、暗示的に第三次世界大戦が起こり核兵器が使用され、この世も終わりか?ということが、冒頭に書いたようにゆったりしたカメラワークや会話の中で感じとることになります。主人公の男は全てを捧げますと自己犠牲の祈りを捧げ、狂言回しのような郵便配達夫に世界を救うには召し使いのマリアと寝ろ、彼女は魔女なので願いは叶うというのです。

極度のうつ状態に見える主人公、その召使マリアとピストル自殺をほめのかし、マリアと寝ることになるが、抱き合ったまま二人は回転しなあら空中浮遊するあっ!と声がでそうになる神秘的な映像。タルコフスキーの映像は我慢が必要なだけ、このような幻想的な展開となると一気に画面に引き込まれます。

そして目覚めると何事もなかったような世界に変わっていた。そして自己犠牲をはらったからか?男は家に火をつけてしまう。狂気に陥ったのか?映画は未来に希望を託すかのような終わり方を見せます。言葉を話すことができなかった少年が「最初にことばありき」「なぜなの?パパ」と生命の樹のふもとで発話する。そして息子に捧ぐとの字幕が・・・うーん、なかなか難しい。

「サクリファイス」は観念的な部分がほとんどをしめ、キリスト教的な概念が多分大きな要素をしめているので馴染みのない私には難しい部分もある。ただ「サクリファイス」には、罪と贖罪、そして救済、希望の概念があるように思えます。

タルコフスキーはインタビューで以下のように答えています。「二千年前にゴルゴダが必要とされました。しかし、人々はその責任を自分で背負おうとしなかったのです。これがなにも持たらさなかったと考えることは辛いことだと、私は理解しています。」「信仰は人間を救うことのできる唯一のものだとということ、これこそ私の強い確信なのです。それ以外の方法がどうしてありえるでしょうか。」(イメージフォーラム「タルコフスキー、好き」より)

タルコフスキーにとって〈信仰〉というのは切っても切れない大切な部分と言えるようです。映画製作においてけっこう大きな要素かもしれません。

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