望郷の念にかられ魂が迷う詩的な映画「ノスタルジア」
映画「ノスタルジア」(1983年)
■製作年:1983年
■監督:アンドレイ・タルコフスキー
■出演:オレーグ・ヤンコフスキー、エルランド・ヨセフソン、ドミツィアーナ・ジョルダーノ、他
この映画「ノスタルジア」で印象的なのは、廃墟、水、雨、火、犬といった要素です。これら要素は「惑星ソラリス」にもみることができ、タルコフスキーにとってそれらの要素が重要なんだと。
タルコフスキーの映像は、かなり抑揚をおさえた感じで、静謐な時間を維持したままゆっくり展開するので、まるで詩を感じるように、映像を感じて行くので、それら表現されたものを味わうという印象が強い。スピード感に馴れた我々にとっては、少々きついなと感じる部分もあります。いいかえると我々は深く思索するということを忘れてしまっているということになるのかもしれません。
この映画はイタリアとの合作。タルコフスキー自身が当時、西側で認められたものの、祖国ロシアでは満足に創作活動ができないことにより、亡命を決意するのですが、その時に作られた作品ということでイタリアが舞台になっているということらしい。それゆえにこの「ノスタルジア」には、家族の分断が投影されていると言います。
映画の後半、水浸しの廃墟のような教会でアンドレイという名の少年が幻影として登場するのですが、この少年こそタルコフスキーの息子の名。そこに息子を登場させたかったのでしょうが、残念ながら、息子は最後の最後まで旧ソ連から出国が認められることはなかったいうです。そうした引き裂かれた気持ちが表れています。亡命し祖国を離れて最後は異国で生涯を終えたタルコフスキーの葛藤のようなものが、映像に込められているといえるのです。
主人公の詩人という男性は常に憂鬱状態に落ち込んでいます。そこにイタリア女性がパートナーとしているのですが、彼女の振る舞いがこの映画では明るさを出しているのですが、映画全体から見ればしっけの多いメランコリックなテイスト包まれています。やがて男性の鬱な状態に嫌気をさし、女性は離れてしまいます。
タルコフスキーは映画の中で、女性をどのように捉えているのでしょうか。教会で聖母マリアに祈りを捧げる場面で、その聖母のお腹から鳥の群れが飛び立つ映像があります。「惑星ソラリス」では女性は記憶の中から構成された人間ではない存在でした。この「ノスタルジア」では、鬱状態にいる男から女は去っていきます。私=自分と女=他者においてわかり得ない理解不能な存在としてみてるのでしょうか?生命を産む女性は、一方で鬱で苦しみ悩む私を理解しようはしない?タルコフスキーは二面性を感じているのでしょうか? 神父らしき男がひざまついて神に祈りをと言われ、女性が祈ろうとしても、私はできないと表現されている。
映画では終末論を信仰し長く家族までを巻き込んで引きこもっていた男がいます。彼の家廃墟と化しは雨漏りがひどく、やはり水が支配している世界。その男の壁には1+1=1(1滴の水と1滴の水を足しても1滴の水)という意味ありげな数式が書かれている。そして彼はローマに出て、演説し大衆の目の前で焼身自殺してしまう。絶望感に満ちた映画とも言えます。
ラストの場面で故郷の家に犬とともにいる映像が映し出されるのですが、どんどんひいていくと、それは古びた廃墟と化した大聖堂で中にあり、雪が降ってくる。ある意味すごい映像表現で、これぞ一つの映像表現の極みとも感じられる一瞬で、タルコフスキーは詩人なのだと思うしかないなと。望郷の念が頭から離れず、生きるとは?私とは?を問う感性が豊かでセンシティブな詩人としてみるしかないと。魂は彷徨っているのです。