一人称の中で愛の成就を、ソダバーグの「ソラリス」

映画「ソラリス」(2002年)

■製作年:2002年
■監督:スティーヴン・ソダーバーグ
■出演:ジョージ・クルーニー、ジェレミー・デイヴィス、ヴァイオラ・デイヴィス、ジェレミー・デイヴィス、他

あの「タイタニック」を作ったジェームズ・キャメロンが製作し、名匠スティーヴン・ソダーバーグが監督した「ソラリス」。映画史においてたアンドレイ・タルコフスキーが作った「惑星ソラリス」があるので、どんな映画となるのでしょう?あえてこの映画を作ろうとしたのは偉大な作品への敬意と挑戦?

まずこのの映画は、個人的な想いによる<愛の成就>を目指したものというのが感想。ソラリスは人間の潜在意識下にあるコンプレックスやトラウマとなった記憶を呼び覚ましその実態を作り上げてしまうという奇妙な惑星。妻を自殺させてしまったという過去を持つジョージ・クルーニーが演じる精神分析医は、ソラリスを探索している宇宙船のクルーを救出すべく使命を受けてそこへ向かいますが、宇宙船に着くとソラリスによって死んだはずの妻が出現し、ミイラとりがミイラになってしまうような展開となってしまいます。

「ソラリス」を見ていると、人間は悩みの元になっているものが現れると、かくも心が乱れ弱いものかと思うわけです。動揺し冷静な判断ができなくなる。悩んでいる故にそれに呪縛されている。ソラリスによって出現させられた妻は、記憶はないものの現実的存在として目の前に現れ、一人称の中の夢や空想の世界ではなく、対人関係が成立するコミュニケーション可能な存在としてそこにいるのです。実際、ベッドで抱き合ったりしています。こんな具合ですから当の本人の困惑、混乱はさけることができるわけがない。つまり記憶的存在としての何者かを相手にしているのですが、その境界はあいまいとなり、リアルな感覚が怪しくなってくるのです。

ジョージ・クルーニーがソラリスに行く前の現実の世界、それは<今ここ>の世界で空間の制約を受け、今という時間しかありません。それがソラリスに漂う宇宙船の中で起こっている世界となると過去が熔けだし現在との境界が曖昧となってきます。しかし、そこではまだ心理面における本当の合一、統合は進んでいません。

ジョージ・クルーニーが自ら進んでソラリスに残ったラストの展開、地球に戻った?と思われる彼の自宅のキッチンに居るとき、包丁で切ってしまう傷はフェイクなのか、すぐに治ってしまう。あれ?一体ここはどこ?と思わせる展開の時に死んだ妻が登場するのは、心理的な融合がさらに進みおそらくはソラリスそのもののなかに包まれてしまっている状態となんだろうと思います。主人公をそうした行動に向かわしめたのはまさしく<愛の成就>への欲求、しかし、本来は死んでしまっている妻が、目の前にいてもそれは妻ではないかりそめの実体に過ぎないのですが。つまり、この場合一人称の世界の中望郷のなかで沈んでいったのがタルコフスキー版であれば、ソダーバーグ版は<愛の成就>を目指した物語と私は見たのでした。

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