幻想絵画にひかれる理由-澁澤龍彦「幻想の画廊から」
『幻想の画廊から』 澁澤龍彦(河出文庫)
澁澤龍彦なる人物、私的には無視し得ない知の巨人なのです。澁澤は、様々なアンダーグラウンド、異端的なものを紹介し続け、多くの芸術家達に影響を与えてきたわけですが、私も、芸術家でもなんでもないのですが、澁澤の本を読み感性の扉を開く手助けになったひとりと言えます。
『幻想の画廊から』という、澁澤龍彦によるあとがきの言葉「幻想的な美術や芸術作品に惹かれる私の性質は、その奥にどんな心理的な理由がひそんでいるのか知らないが、自分としては、性来のものとしか言いようがない」とあるように、私も同様に幻想的なものに惹かれ、澁澤のこの言葉に共振してしまうのでした。たぶん私にも「性来のもの」として深層部分に巣くっている、なにものかがあるに違いないのです。
幻想とはイメージの世界であり、たとえば、幻想的な絵を描く画家たちが、なぜこのような絵を描くのか?どうしてこうしたイメージが湧いてくるのか?その世界はどんな世界なのか?そうしたこの世界ではありえないようなビジュアル的なイメージ。もっと言えばその表現されたイメージが世界的な評価を受けてお金にもなっているということ。ビジュアルというのは目の前にリアルな世界はなくとも視覚的なイメージが形成され、脳内で見ていることになる。私はそうした作品にであうと、心惹かれる自分がいることに気づくのです。
今から45年近く前、学生になったばかりの私は、表紙にある小さなサルバドール・ダリの絵にひかれて、まったく知識のなかった美術のジャンルの本を読みました。坂崎乙郎の「幻想芸術の世界」という本です。今思えばモノクロの荒い絵画作品も紹介されており、美術の知識がなかった私は、こんあ幻想的な世界を描いた絵があるんだと驚きました。以来、面白そうだなと思う展覧会があると美術館に足を運ぶようになるのですが、そのながれの一環として澁澤龍彦の本にも出合うようになりました。
振り返ってみると、幻想的な絵を描く作家達の展覧会に度々、観に行っているのですが、それら作家は澁澤の本のガイドによるものではなく、開催情報を知り自身の判断で観に行っているのだから、やはり、性来のものとして共振しているのかもしれないと思ってみたり。デルヴォー、ベルメエル、バルテュス、ダリ、エルンスト、ベックリン、クリンガー、モロオなどなど。なので、そのジャンルの芸術家の知識程度は自然と増えていったわけです。
そうしたなかで、あらためて、澁澤の文章を読むと、何とそれら作家の絵の世界を流暢に的確に表現しているのだろう!と。澁澤はあくまで、よく評論家にみられるような煙に巻くような難しい言葉を選んでで書いているわけではなく、適切でわかりやすい文体で読者に提示しています。言葉選びの天才としての澁澤龍彦、彼の綴った日本語表現にほれぼれしてしまいます。
電車の中で、カバンに入れた澁澤の本を開いて読む。電車の中で私は異空間の住人となり、澁澤が用意した幻想の世界で一人泳ぎ回っているのです。
◆澁澤語録◆
古代の母権性文化圏に属する社会においては、仮面は、女祭司のみの所有であった。マスクと女性の関係は、きわめて古いのである。母なる大地の密儀には、ただ仮面をかぶった女祭司のみが、罰を受ける近づき得たのであって、民俗学の常識によれば、仮面が男たちの手に渡ったのは、ずっと後の時代になってからのことなのである。
仮面こそは、個性をもたず、特定の面貌をもたない純粋な「他者」なのであって、わたしたちに向かって、つねに「おれが誰だか分かるか?分かったら当ててみろ」と問いかけ、謎をかける虚無からの誘惑者なのである。仮面を裏返してみるがよい。仮面の中身は虚無である。虚無がぎっしり詰まっている。個性ある人間の顔が、どうしてこのような、充実した虚無を内包することに堪えられようか。
※『幻想の画廊から』 澁澤龍彦から引用
幻想の画廊から―渋澤龍彦コレクション 河出文庫