疑心暗鬼の恐怖、傑作「遊星からの物体X」

映画「遊星からの物体X」(1982年)

■製作年:1982年
■監督:ジョン・カーペンター  
■出演:カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、デイヴィッド・クレノン、キース・デイヴィッド、他

ジョンカーペンター監督の最高傑作と私が考えている「遊星からの物体X」。この映画を見たときの衝撃は、大学生の時、40年近く経った今でも忘れられません。スクリーンに映し出される映像をクワクドキドキ、そしてヒヤヒヤしながら見ていたことを思い出します。

私がほんの20歳をちょいと過ぎた頃、京都の映画館においてでした。映画の興奮が長く残り続ける映画なんてそうはざらにはありません。私にとっては絶対的な存在感を持っている稀有な1本なのです。おそらくこの映画はビデオを含めて今までに4~5回は見ているはずで、最後に見たときから久しい時間が経っています。今回、その印象が変わっているのか?否か?

「遊星からの物体X」については、もうストーリーはよく知っているのでそれを追いかけることなくじっくりと見たのですが、この作品を見てみると余分なものが全くない研ぎ澄まされた映像であることを認識するに充分でした。始まりのUFOが地球へ墜落するところから、南極基地を破壊し猜疑心を残したまま2人きりになった映像まで、非常にクールな映像なのです。

この全編クールな映像の連続性で成り立っている「遊星からの物体X」は、単なるこけおどかしのSFホラーに終わっているません。映画はSFホラーである前に、良質なパニック映画であり、極上のサスペンス映画なのであります。そこが他の映画と違うところ、私が傑作と感じられるところは間違いなくそこにあるのだと思いました。

カーペンターが、『人間が人間性を失ってしまうこと、人間らしさを失ってしまうことを描いた映画なんだ。「物体」がなにを象徴しているかは、どうとでもとれる。それが象徴しているものは、どん欲であっても、嫉妬であってもよい。つまりは人間がすっかり取り憑かれてしまう悪であればなんでもよいわけだ。いつもなにかが生活のなかに現れて、人間に感染する。人間はときには、自分の利益のために自ら進んでそれに感染し、人間性の一部を放棄してしまう。……この映画は、自分が関わっている人たちは人間ではないのではないかという不安について語っている。それに、どんな人間関係においても、こういうことはあると思う。どんな関係においても、信頼と信用を利用しなければならないときがあるものだ。「きみは本当にわたしとわたしの幸福のことに気を配ってくれているのか、それともなにかの目的のためにわたしを利用しているのか」というぐあいに。』(※『』部分、「恐怖の詩学 ジョン・カーペンター」フィルム・アート社より引用)と語っているように、この映画の見せ場はグロいクリーチャーの特殊撮影の部分以上に、人間心理の駆け引きと恐怖の絶頂とそれによる慌て振りを描いた血液検査の場面であったと思います。もちろんグロい映像の後だから、血液検査の恐怖も生きてくるのではありますが。

宿主を探して次から次へと襲う遊星から来たXは、まるで見えないゆえにコロナ感染を連想させます。いっときの行動制限もワクチンもマスクも、閉ざされた空間における疑心暗鬼のパニック、それがこの映画かもしれません。

もう一度思い返してみるとこの映画は40年近く前の作品です。私は全く古さを感じませんでした。しかし、今の子が見るとどうなんでしょうか?やっぱりその後の映画に大きな影響を与えたという強烈なクリーチャーの映像は今のXG全盛の映像からすると陳腐な感じがしてしまうのでしょうか?そして、その陳腐さが全体の印象まで決めてしまい、それなりの評価しかつかないのでしょうか?それとも、物語の出来栄えと相俟って高評価を得るのでしょうか?

今回再見した「遊星からの物体X」は傑作であるとの評価は変わりません。それも断トツにいいという印象でした。

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