TAOを説いたあの老子の訳を比較してみたら・・・

「道可道非常道 名可名非常名」

道教とは中国の古代から続く神仙思想や神秘思想を中心として、様々な民俗宗教を習合し成立した自然宗教。そして思想的ベースになっているのが道家の老子、荘子の思想、老荘思想。そこで説かれている言葉では表現できない人智を超えた境地、宇宙の根本原理が、 タオ(TAO)=道。

老子の「道徳経」は、タオ(TAO)=道のことを書いている有名な古典。ただ原文は、漢文なので馴染みのない私にとっては、たいそう難しい、だから入門書を読んでいくのがベスト?そこで、入門書の訳とそれをもった意訳した超訳といえる本があって、その訳の比較をしてみました。

例に出したのは、老子の一番初めの教えの部分、第一章。

(1)漢文を平易な読み方にしたもの

『道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無し、天地の初始めには。名有り、万物の母には。
故に常に無欲にして、以て其の妙を観、常に有欲にして、以て其の儌を観る。
此の両者は同出にして名異なる。同、之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門。』

(「老子入門」楠山春樹・著/講談社学術文庫より引用)

(2)楠山春樹氏(学者)が訳したもの

これこそが理想の道だと唱えているような道は(すなわち、世間一般にいう道)は、恒久不変の道ではない。これが名だと示せるような名(すなわち、世間一般にいう名)は、恒久不変の名ではない。天地の資源(である「道」には名はないが、万物の母(である天地)には名がある。それゆえ、恒久的に無欲である人は、(始原的な「道」の)微妙を観ることができるが、恒久的に有欲である人は、(現象的な万物の)末端を観るにとどまる。 (天地の始と万物の母との)両者は、同根、すなわち本来は一体のものでありながら、(一方は無名、他方は有名というように)名を異にしている。その両者が混然一体となって(万物を生み出して)いること、それを玄(不可思議)と呼ぶ。玄の上にも、さらに玄なるところ、そこに万物の生れ出る「衆妙」の門がある。
(「老子入門」楠山春樹・著/講談社学術文庫より引用)

(3)加島祥造氏による超訳したもの

これが道だと口で言ったからって
それは本当の道じゃないんだ。
これがタオだと名づけたって
それは本物の道じゃないんだ。
なぜって道だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無いタオの領域が
はるかに広がっていたんだ。
まずはじめに
名の無い領域があった。
その名の無い領域から
天と地が生まれ、
天と地のあいだから
数知れぬ名前がうまれた。
だから天と地は
名の有るすべてのものの「母」と言える。
ところで
名の有るものには欲がくっつく、そして
欲がくっつけば、ものの表面しか見えない。
無欲になって、はじめて
真のリアリティが見えてくる。
名の有る領域と
名の無い領域は、同じ源から出ている、
名が有ると無いの違いがあるだけなんだ。
名の有る領域の向こうに
名の無い領域が、
はるかに広がっている。
明と暗のまざりあった領域が、
その向こうにも、はるかに広がっている。その向こうにも・・・・・・
入口には
衆妙の門が立っている、
森羅万象のあらゆるもののくぐる門だ。
この神秘の門をくぐるとき、ひとは本物のLife Forceにつながるのだ。

(「タオ・老子」加島祥造・著/筑摩書房より引用)

ちなみに「玄」とは、人の感覚・知覚を超えた霊妙不可思議なさまをさし、「衆妙」とは、諸々の神秘、万物が次々と生み出されてくることをさしているそうだ。いろいろな訳を読むと創造力も広がってきますね。

台湾で飲茶した時の写真
タオ―老子 (ちくま文庫)

老子入門 (講談社学術文庫)

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