幸福とは?偶然性を、想像力によって組織してゆく力学by寺山修司

「幸福論」寺山修司(角川文庫)

高度成長期の時代、異を唱え前衛として社会を駆け抜けていった寺山修司。職業は「寺山修司」といわれるほどにマルチの才能を見せ、常に、挑発的姿勢を崩さなかった寺山修司。その寺山修司が説く幸福論とは?

寺山が最終的に言っていることは、けっこうシンプルなことではないかと思う。それは想像力と行動力の力によって人生は豊になり得るのだということではないのか。

それこそ歴史は想像力によって書き換えることが可能であるし、想像の中で歴史は生成してゆく。偶然の出来事や出会いについても、それを自分にとってプラスなものとしてとらえる、あるいはプラスなものとして演出していくのは想像力の力でしかない。悶々とした青年が一人深夜に自慰であこがれの女優と想いを遂げることができるのも想像力のなせる業。想像力!想像力!想像力!

しかし、それだけでは不十分であると。町へ出ろ!動け!喚け!叫べ!行動は、瞬間の中に幸福の神が宿っていることを教えてくれるはずだ。

『偶然性を、想像力によって組織してゆく力学』が求められるのだ。

◆寺山修司語録~「幸福論」より~◆

“一口でいえば「幸福」というものは、現在的なものである。それは時代をコードネームにして演奏される、モダンジャズのインプロビゼーションを思わせる。”

“何度でも死ぬやつは何度でも生きられる。”

“映画の中に、逃げ込むな!映画の中の人物たちを、スクリーンの外へひきずり出せ!それが、想像力の有効性というものであり、「幸福論」の約束事である。”

“いかに明晰化しようと、解明しようと隣室の(壁の穴から見えるだけの)女は、肉体美でしかあり得ない。そして、美は幸福そのものではなく、その代用品としてしか存在しないものなのである。”

“美としての肉体を超えて和合しようとする想像力の冒険”

“想像力も、交換可能の魂のキャッチボールになり得たときには、「幸福論」の約束事になり得るのである。”

“「さあ、言ってみろ。一口で言えば、おまえは誰なのだ?」と問いつめられて答えることば。

 「私は××です」

  ××・・・・・・しがないサラリーマン。

  ××・・・・・・一東大生。

  ××・・・・・・名もない日本人。

  ××・・・・・・商社員。

  ××・・・・・・労働組合員。

  ××・・・・・・創価学会員。

 この××とは、何ら実体とかかわりあうものではない。これはいわば「私」にとっても広告コピイのようなものであり、一つの要素に過ぎないにもかかわらず、いつのまにか「私」は××しかないとと思うようになり、××人格化してゆき、「××意識」から××の友情を間モッツテゆこうとしはじめる。

「変装」とはこの××から自分を解放するための日常的な冒険であり、現実世界と想像力世界とのあいだの境界線をとりのぞくための起爆剤である。ここでは、××による停滞状況。××による不条理から解放されて、まさに「本質の世界から野放しにされた存在そのもの」のもう一つの日常性が問題になってくる。それは劇的想像力の恢復による生甲斐の再検討といったことである。”

“演技の思想とは、いわば「自分が何者であるか」を知るために、存在を本質概念に優先させようとする企みである。しかし、この存在は常に醒めた演技生理によって自律されている。”

“空想は、行為の再現でもなければ終局でもない。まさに現実と同じように、力学をもった存在である。そして、空想を生活の中にたたみこんで居直るのが、実人生における「演技」というものである。”

“演技の問題は、同時に劇的想像力の問題でもある。それは、想像の世界と現実の世界とのシーソーゲームであり、日常生活の中で、両者を同時にとらえることによって、識別してゆく眼を持つことである。重要なことは「演技」を生き方の方法にすることによって、想像と現実のあいだの階級を取り除くということである。空想していたものが、いつのまにか現実になだれこむという無思想の戒めである。空想とは現実を見る一つの方法論であり、現実とは、万人の空想に支えられた楼閣である。”

“出会いに期待する心とは、いわば幸福をさがす心のことなのだ。”

“「熱狂的に、騒ぎたてることのない人間」が、「活発に行動できるか?」”

“売春婦のさそいのことばは「遊んでいかない?」であって「愛していかない?」ではないということが実は重要なのである。”

“いつも他人でありたいと願う無意識の心は、いつもドラマツルギーを保っていたいと願う思想の発端になる。あらゆる思想はドラマツルギーであり、あらゆる性生活は葛藤と因果律である。だからこそ、豊かな性生活の中に「幸福論」の体系が見出されるのである。”

“オナニーは自己の生理調節だけではなく、増殖し収集不能になりつつある記憶、思い出などを「管理」するための、きわめて人工的な摩擦運動である。”

“偶然性というのは、必然の体系から情報を省略したものであり、コンピュータの乱数表のに肉体化である―ということも出来るだろう。”

“偶然の本質、偶然をそれ自体の存在として受けとめようと思い立ったときに、はじめて自由になれるのだ”

“歴史には、何の目的も使命もない”

“歴史について語るとき、事実などはどうでもよい。問題は伝承するときに守られる真実の内容である。虚構であり、他国であり、手でさわることのできない幻影である「過去」をしばしば国家権力が「つくりかえて」伝承してきたように、われわれもまたわれわれのときの回路野中で望みどおりの真実として再創造してゆく構想力が必要なのである。”

“歴史は、「あるときは片目の運転手」であり「あるときは三本指の男」であり、そして「あるときは青竜街の狼」だということを忘れてはならない。”

“「幸福論」は、永遠に到達し得ない闘いの原理であるから、想像力は自らの対岸に反抗の対象を失うことはないだろう。”

「イン・トゥ・ザ・ミラー」YouTubeチャンネルへ(←クリック!)

Follow me!