青女という言葉を造語したものの、今や時代は逆転してしまった?

「さかさま恋愛講座 青女論」寺山修司(角川文庫)

<青女>という言葉、男性の青年という言葉に対して女性のそれに対応する言葉がなく、寺山修司が作った造語とか。

確かに少年―少女という言葉があるものの、青年という大人になる過程でも女性に適応した言葉がありません。少女から大人の女へというように、男性とは違って一機に飛んでしまいます。女性には男性のような青年という言葉が象徴するようなライフサイクルの一時期がないのでしょうか。そのような寺山修司の疑問から生まれたのがこの<青女>と云う言葉です。

本の中で寺山修司は一貫して、まだまだ社会の古層に根付いている男尊女卑の古い因習の呪縛から解き放たれて、想像力を駆使し一人の個人として人生を楽しむ女性としての生き方を説いています。1974年に発刊といいますから、当時としては、かなり新鮮であったのでしょう。

しかし、イマドキは、寺山修司の50年近く前の主張などやすやすと乗り越えてしまい、スマホ片手にマナーも無視し、<青女>なんていう言葉を一笑に付すような女性たちがあたり前のように見かける時代。そんな女性ばかりではないという意見もあるかもしれませんが、大きく変わったなとも思います。女性のほうがしたたかな気がします。ゆえに、寺山が定義した<青女>なんてそもそも幻想であったのかも知りません。

男が男尊女卑的な立場に立っていた時代は変化し、女性はその生き方を謳歌する時代へとなっています。むしろ男が夢やロマンを忘れて現実的になり、冒険心を持つことなんて無意味という感覚さえ感じてしまうほど。「青年よ、大志を抱け!」なんて死語に近い印象も。だから私は<青女論>よりも、もう一度<青年論>を交わす時代に来ているのではないか?昭和の教育を受けてきたものには、そんな風にも感じてしまうのです。

◆寺山語録~「さかさま恋愛講座 青女論」より~◆

“長い一生のうちで、女の子がお嫁さんになれるのは、たった一日だけです。離婚して再婚すれば二日、再婚の記録を十二回持っている女性にしたところで、たった十二回しかお嫁さんでは、いられないのです。”

“たのしいセックスができることは、ダンスや歌がうまかったり、絵に秀れていたり、演技が上手だったりするのと同じようにその人の教養であり、才能であるべきです。”

“観光で世界一周してきたツーリストの感想の最大公約数は「どこに行っても、にんげんの想像力を上まわる風景なんかなかった」ということになるのです。”

“仮に女の一生を六十五年としましょう。女は六十五年間恋愛することができる、というのが私の考え”

“ひとは何時も、自分自身のものでしかないのであり、そこから出発した思い出だけが、コミュニケーションの回路に辿りつくことができる”

“心と想像力とを混同」してはならない。幸福はあくまで想像力の産物であって、孤立した個人の内部の退行現象ではないのです。”

“愛情は虚構です。それは、つかまえどころにないものであり、それを数えることも測ることもできない。それを多くもつことのできる人は、心の「財産目録」がゆたかになるということになる。だが結婚や同棲は生活です。それは実態であり、二人の関係の中に二人だけの政治、二人だけの経済、二人だけの福祉と保護といったものをもつことを要求される。・・・・・・そのことと「愛情」とはべつの用語で語らなければならないということを知っている人を、少しは信用してもよいと、思うのです。”

“性行為は演出され、ときには音楽や詩、ときには虚構によって彩られ、それ自体がたのしみであり、消費であり、「出会い」であるのです。・・・・・・誰でも権利のある生の証明です。”

“私は、しあわせは、新たな価値の創造であり、かつて存在しなかったものを生み出すための想像力による働きかけではないかと思うのです。”

“だってそのこと自体、三十センチ未満のものの摩擦運動にすぎないわけでしょ。それがエロスとなっていく過程で幾重ものの幻想を創っていくエネルギーが必要になってくるわけ。想像力の助けを借りなかったらおもしろくないですよ。”

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