最後のただひとつの願いを・・・

映画「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)

■製作年:2004年
■監督:クリント・イーストウッド
■出演:クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン、他

クリント・イーストウッドの映画に涙腺がやられてしまいました。映画を見終えたときにエンドロールで余韻に浸ることがあるとした場合、この「ミリオン・ダラー・ベイビー」は、余韻に浸る映画ベストスリーに入るんじゃないか、って思いました。終わりよければすべてよし。もし、そうした法則があるのならば、まさしくこの「ミリオン・ダラー・ベイビー」は、その映画であると思いました。絶妙な終わり方、悲しいし、せつないし、侘しいし、優しいし、そっと映画を包み込むような演出は天下一品なのでした。私は内容もさることながら、この映画の終わり方にハートを持っていかれてしまいました。

テーマとしてはボクシングにおける試合中の事故によって起こった尊厳死という重く暗い題材であるのですが、そこにクリント・イーストウッド演じる無骨な老トレーナーの優しさを感じずにはいられませんでした。たかがボクシング、されどボクシング、人生はことほどさように様々な試練を課してきます。人はいろいろな十字架を背負って生きていかねばならないことがこの映画を見ていると感じます。罪を背負う、「ミリオンダラーベイビー」にはイーストウッドの十字架のテーマをみることができると思いました。

この映画におけるボクシングとは女子ボクシングをさしています。女性がボクシングを、というのはストレートに考えれば普通ではありません。そこには見世物的な要素が多分にあります。イーストウッドは社会の周縁にもがきながら生きている人間を描いているのです。この映画によってアカデミー賞主演女優賞をとったヒラリー・スワンク演じる女性ボクサーは選手としては年をとりすぎている、彼女には後がなく、半ば押しかけ的にボクシング・ジムに入門します。後がないのは、家族がまともではないため。特に母親がひどく、ホンマに娘かと言いたくなるような態度をとります。彼女には帰る家族がなく薄給で生活しながら、ボクシングで身を立てるしかないと考えています。

一方、クリント・イーストウッド演じる老トレーナーもどうやら娘がいて関係がうまくいっておらず、さらに、ボクシングにおいても過去に傷があるようです。最初は女性をトレーニングすることに拒絶していたイーストウッドですが、だんだんと心を開いていきます。頑固な老オヤジ、彼は心の中の闇を抱えていて、どこか素直ではない、卑屈な部分を持っている。それは自分の責任なのだとおそらく無意識に思っているのだろう。人間関係も上手ではない。しかしそうした頑なな自己も、ずかずかと入ってくる拒絶していた若い人とのコミュニケーションにより雪解けしはじめ、彼は贖罪として新たな行動を起こす。

クリント・イーストウッドは、そんな原型的なイメージを持っているのかもしれません。この映画においても自分が育てた女子ボクサーが破竹の連勝により世界タイトルに挑戦したときの事故、形勢不利なチャンピオンがゴングが鳴った後に、後ろから不意討ちの反則パンチを放ち、それを受けたヒラリー・スワンクが椅子に向かって倒れ込み首を強打するという、それにより半身不随の体になってしまうという事故に対して自責の念にかられてしまいます。首から下は全く自由が効かず、生命維持として人工呼吸により生きている状態の彼女、尊厳死を望む彼女にイーストウッドは行動を起こすことに…。

私の父が20年ほど前に癌で亡くなった時、一度は息をひきとったもののその後の医師の蘇生措置により1ヶ月以上も生きることになりました。しかし、癌の痛みに5分に一度は激痛に苦しむことになりました。おまけに一度血流が止まったためにしゃべることができなくなりました。癌による痛みで鬼のような形相で耐える父を見ていて、とても正視できませんでしたし、蘇生措置に対してこれでいいのかと大きな疑問を感じました。父がいよいよというときに「ありがとう」と感謝の言葉をかけました。その時、しゃべれない父の目から涙が流れたことは忘れることができません。

以来、やみくもな生命の維持には疑問を感じているのですが、この映画のテーマである尊厳死とイーストウッドがとった行動には問題があるものの、深い感動を感じずにはいられませんでした。しかもその映画の終わりかたが、優しい光に包まれているからたまりません。またまたクリント・イーストウッドの映画にやられてしまったのです。

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