死ぬまで男、欲望に憑かれた爺描く清張の「けものみち」

「けものみち」松本清張

男は死ぬまで男なんだということ。この松本清張の小説は政財界の暗黒面を描いているとともに、男の持つエロスがテーマのひとつとしてあります。老いらくのエロス、主人公の民子は安宿の女中から政財界のフィクサーである鬼頭のもとに住み込み身の回りの世話をするとともに、老人の欲望を満たす役割の女へと転身していきます。つまり、裏社会のドンの寵愛を受ける妾の立場へとなっていくのです。。

『老人は、掌を揉んだときのように、彼女の顔をさしのぞきながら一つ一つの反応を観察していた。彼女は自分を失った。どのような表情になり、どのように崩れていったか覚えがなかった。わかっているのは、老人の喘息のような咽喉の音を両脚の間に聞いたことだった。』『老人はとうに男を失っていた。が、彼には人間最後の執念が残っている。執念は、女を忘我の状態にさせることで己の満足を得ようとしている。この老人はそれだけに生甲斐を求めているようだった。』

この鬼頭の欲望は尽きることがありません。『毎晩のように民子の身体をまさぐった。』小説ではこの鬼頭のフィクサーとしての部分を直接には描いておりません。そのほとんどが民子との情事の描写なのです。そして女の前では、政治家もひれ伏すドンもただエロ爺。

民子は鬼頭の回春の装置となり夢中にさせるほど女としての魅力を持っている存在で、それ以外にも一流ホテルの支配人である小滝や刑事の久恒などの関心を惹きつけます。それはラストで意外な展開をみせる人物、鬼頭の屋敷をガードしている黒谷という男の好奇な視線にもさらされます。そこの描写は男の無意識の欲望をうまく表現しているように感じます。

「けものみち」は欲望、つまり金と権力、性欲といったある意味で人が行動を起こすための具体的なモチベーション、推進力として大きな力となり得るその“欲望”を顕在化した小説です。そしてこの欲望をコントロールするのは“恐怖”であるということ。そうした図式をわかりやすく提示した作品ではないかと思います。本能には本能で制すということになりますね。

ドラマ「けものみち」(1982年)

■放送:NHK、1982年1月(3回)
■演出:和田勉
■脚本:ジェームス三木
■出演:名取裕子、山崎努、西村晃、伊東四朗、加賀まりこ、他

民子を演じている名取裕子がいい。NHKで1982年に3回に渡り放送された松本清張原作の「けものみち」。介護を要する元ヤクザの旦那を放火で焼き殺し、ホテルマンの小滝(=山崎努)誘いに乗って<けものみち>に足を踏み入れ、そこに野心を見いだしていきながらも自らに過信してしまう女・民子。女が男を手玉に取り魅力的に変貌していく様を名取裕子は力強く魅力的に演じていました。(当然ですが若い!)

民子を演じる名取裕子はフェロモンを出しまくりの演技を見せている。当時よくここまでできたなと思わせる公共放送であったNHK、ちょっと際どいのではないかというシーンがありました。そして名取のオーラは実に色っぽいということ。このドラマでは何かが降りてきたように女の魅力を放っているのです。見ていて名取裕子にはシビレてしまいました。

それはまた相手役を勤める鬼頭演じる西村晃の演技もよかったということになるのでしょうが。事実、見た目はただの爺さんなのですが、時折見せる厳しい眼光は、フィクサーとしての恐ろしさを見事に表現していたと思います。見ていて役柄とはいえ、想像を超えるお金と権力を持っていると、やることが違うんだなと。

その鬼頭の部屋に象徴的に置いてあった愛染明王。愛染明王とは『サンスクリット語でラーガ・ラージャという。ラーガとは愛欲、すなわち性的な欲望の意味。ラージャは王の意味である。大日如来の変化化身、あるいは金剛薩埵の化身とされる。愛染明王は「愛の王」という実に煩悩の塊のような名前を持っているのである。愛欲は人間の煩悩の中でももっとも断ち難いものだが、この明王はそんな愛欲を悟り求める心(菩提心)に高めて、さまざまな悩みから救ってくれるという。つまり、断ち難い愛欲を無理に断ち切ろうとせず、悟りのエネルギーに変えてしまおうとするのである』(『』部分「歴史読本 神様・仏様の詣で方祈り方」)とあるものの、鬼頭は「民子は生き菩薩、どんな美術品も敵わない」といった風なことを言ってのける。ありがたい仏であっても目の前の美人には敵わないということか。

ドラマは前半は原作に忠実に、後半は民子と小滝の関係をより明確にさせる構成で展開されていました。小滝には愛してしまったと言わせ、2人の逃避行が始まるのです。が、鬼頭にはすでに新しい女があてがわれており、2人はけものみちの道を踏み間違えてしまうことになります。それは民子が自身を過信し、小滝との関係において耐え忍ぶ時間を待ち切れず判断を誤った行為をしてしまったことにい起因する。ムソルスギーの「展覧会の絵」が効果的に流れる中、2人のけもの道は、けものらによって塞がれてしまうという悲しい結末の予感で終わるのでありました。

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