映画は名作だけど原作はそこまではと感じた清張さんの本
「砂の器」松本清張
松本清張の代表作はといえば多くの人が「砂の器」を思い浮かべるでしょう。事実、小説もその作品が一番売れているようです。映画化された「砂の器」も日本映画史に残る作品となっていますから。
しかしその「砂の器」を読んでみると、そんなに面白いとは感じませんでした。清張には、もっといい作品があるようにも思いました。少しばかり無駄が多いような、そして、どこか枚数稼ぎをしているような印象もあり、読んでいて若干イライラするところがありました。自分の能力を顧みず言うと選ばれたテーマと作品を構築する素材と展開の仕方に無理があるようにも感じました。
なんでだろうと思っていると、阿刀田高の「松本清張を推理する」(朝日新書)にその秘密がありました。その本によると「砂の器」は新聞連載小説だったと。与えられた枠の中で書いていくため阿刀田氏曰く“小説のストーリーというものは……小説の進行これにぴったりと符合しているわけではない”ので“-今日の分が十行分空いちゃうな-無理に引き伸ばして十行を埋めてしまう”、そんなこともあるといいます。だから“日を分けて少しずつ読まれることを条件としているものは、そのままでは一編の小説として疵が生じやすい。さらにまた一年の連載ともなれば、-このへんでまた一人殺さない、まずいかなあ-”なんてことも考えてしまうというのです。確かにね。
大体人間はマシンではないのだから都合よくある定量を満遍なくクォリティも下げず生み出すことなんて容易にできないものだとは容易に想像がつきます。その創作における格闘において一定以上のものを提示し続けることから、作家の真の実力が見えてくるのかも知れません。
小説「砂の器」はそうした松本清張の苦労した部分が見え隠れしている作品に思えました。この天才的な文学の巨人においてもそうなのか…と。ただそこにハンセン氏病という差別問題を組み込んだことは、すごいなと思います。現在はコロナによって様々な情報が飛び交い、飛び交い過ぎて社会的な歪みも起きているように思います。清張さんは今の日本をみたらどう切り込んでいくのでしょうか。
映画「砂の器」(1974年)
■製作年:1974年
■監督:野村芳太郎
■出演:丹波哲郎、森田健作、加藤剛、加藤嘉 、他
映画「砂の器」といえば私の世代では感動巨編の名作として知られている作品。そこには秘密があり、松本清張の小説を読んでから後に映画を観るという順番を踏むとよくわかるのですが、この著名な映画は原作を相当割愛し、さらに独自にイメージを膨らませていることが見えてきます。そしてその方法論を取ったことが、映画の成功であったといえるのです。
そもそも音楽家の和賀英良が新作の曲「宿命」の発表のコンサートに重なるように、事件が収斂されていく感動的な展開は小説にはありません。彼が生み出す音楽も映画のように万人にわかりやすい涙腺に訴えかけてくるものではなく前衛的な電子音楽で、おそらくは不協和音が鳴り響く実験的なものであったはずなのです。
映画という興行的側面を持つメディアの性格上から、映画館から“感動”というプレゼントを心に抱きながら帰ってもらうためには、原作における複雑さ、難解さをそぎ落とし、簡素化し変更を加える必要があったということでしょう。
殺しにおいてもそうです。原作では何人かの殺人が描かれているのですが、その方法は超音波によるものと斬新性はあるのですが、もしそれを映像化したら意外とチープで滑稽なものになっていたかも知れません。そうした余分な部分を削いでいき映画「砂の器」において印象的な映像詩のように一時間近くも悲哀に満ちた親子の旅、絆、別離、そして彼等が受けた差別を描いていったのであります。
「砂の器」はそれシーンを見せるために作られたかのように…。この思い切った戦略により「砂の器」は時代を超えた名作となったのでしょう。