欲望と幻想の「エム・バタフライ」

映画「エム・バタフライ」(1993年)
■監督:デイヴィッド・クローネンバーグ
■出演:ジェレミー・アイアンズ、ジョン・ローン、他
デヴィッド・クローネンバーグ監督の『エム・バタフライ』は、彼の作品群の中でも異色の作品と言え、賛否わかれる映画と思うが私は好きなほうに入る。というのも精神や肉体の変容を描いてきたクローネンバーグが焦点を当てるのは、欲望の幻想が人間をいかに盲目にするかという点にあります。それは、フランスの外交官ルネが、「裸のランチ」や「ビデオドローム」「スパイダー」の主人公と同じく幻想の世界に生きていたということを違う形であらわしていると思いからだ。
フランス外交官ルネは、中国の京劇男性歌手ソン・リリンと恋に落ちる。彼は二十年近く彼女を女性だと信じ続け、おまけにソンに操られて知らず知らずのうちにスパイに参画してしまい破滅していく。これが現実の事件であるということに驚くが、クローネンバーグらいいと思うからだ。
というのも女性と騙され続けたルネ自身が、「裸のランチ」や「ビデオドローム」「スパイダー」の主人公と同じく、現実を直視せず幻想の世界に生きていたということを違う形であらわしていると感じるからだ。そうした精神の幻想に陥るのが、ここではドラッグやトラウマ、メディアレイプではなく女装した男性というところに絶妙な味わいがあるのだ。
この点でジョン・ローンの演技が素晴らしいのだ。ジョン・ローンを女性として感じられない、不自然という否定的な意見もあると思うが、私はそうは感じなかった。ルネはジョン・ローン演じるソンの東洋の慎ましい女性の姿に惹かれていく、その神秘性を体現していたからだ。ソンの毅然とした姿は、不自然さを覆い隠すほど神秘的で、私は美しいと感じた。
ルネは相手を尊重しているように見せかけているだけで、実は、自分の欲望を投影して見ているにすぎないとしたら、ジョン・ローンの演技は、素晴らしく美しいと感じるのだ。自分の欲望を投影して相手を見続けるなんて、西洋の、白人の傲慢さ以外の何者でもでもないのではないか。一緒に生活し、相手が男性とはきづかなかったなんて、ただ相手を自分の都合のいいようにしかみていないと思うのだ。
さらにここには、西洋の帝国主義的幻想が色濃く映し出されている。ルネは、ソン・リリンを従順で自己犠牲的な東洋の女性として思い描く。東洋を受け身の女性とし、西洋を支配する男性とみなす構図というのが植民地支配の構造を通じて浮かび上がる。ルネが愛しているのは女性ではなく、自らの文化的偏見と欲望が作り上げた虚像にすぎない。ここに、クローネンバーグ作品らしい冷徹な洞察が潜んでいると思うのだ。
クローネンバーグが描いているのは、精神の、欲望の幻想そのものだ。幻想は肉体をも欺き、やがて人生を飲み込んでしまうのだ。「あなたが愛しているのは、本当に相手なのか。それとも、自分が作り上げた幻想なのか」と。