シュルレアリスム、感覚の扉を開け!
超現実主義とも訳される美術史における特異な運動だったシュルレアリスム。私は幻想とか夢幻いった言葉にひかれてしまう傾向があり、当然の流れとしてシュルレアリスムをテーマとした展覧会や本にたびたび触れる機会がありました。
このシュルレアリスムは、第一次世界大戦後、混沌とした時代から誕生した芸術のレヴォリューション。この運動は戦争の暗い影響下で、人間の無意識や夢幻的な世界を探求し、現実と超現実の狭間で新たな真実を見出そうとしました。
戦火に巻き込まれた人々が生んだこの芸術運動は、マルクス主義やフロイトの精神分析学に根ざし、無意識の探求と現実の解体を試みました。その結果、一見奇妙で理解しにくい絵画や文学が生み出されましたが、それらは単なる幻想ではなく、人間の内なる感覚と現実の間の連続性を象徴していました。
シュルレアリスムは無意識を発見したフロイトの影響を受けているため、作家の内面性の探求のように思われるのですが、シュルレアリスム研究の第一人者・ 巌谷國士氏によると、超現実とは【現実の中に内在していて、ときによって露呈し、ある場合には現実が「超現実」になってしまう】、つまり【強度の現実】なのであると。それは【人間におとずれる客観的なものたち】なのであり、その【客観が人間におとづれる瞬間をとらえる】ことこそがシュルレアリスムの本質であったということなのです。
これらの作品群は作者の内面的主観的的な世界ではなく、客観的な存在や超現実の連続性を表現しており、観る者の内なる感覚と相互作用して新たな視点を提供します。これはある種の内面と外界の融合であり、失われた超感覚の世界への扉を開くきっかけをねらったものだったといえるかもしれません。
フランスの詩人ロートレモアンのシュルレアリストに大きな影響を与えた有名な言葉「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」。異和を生じさせるディペイズマンの効果。
フランス文学者の酒井健は、著書の中で【二つの現実から偶発的に生まれたイメージについて、理性はそこから自分に欠落していたものを学ぶべき】であり、【理性に欠落していたもの、それは、物と物、人と人、国と国、民族と民族を分けて捉える理性の習性、とりわけ近代から顕著になったこの識別と分離の習性ゆえに理性が見落としてきたもののことにほかならない。すなわち、別々に分けられた存在であっても共存しうる可能性を持つということ、しかもその新たな共存態は分離させられていた存在にはない強い生の輝きを発する可能性を持つということである。この輝かしい共存態こそ「超現実」のイメージ】だとしています。
さらに酒井氏は【「超現実」は人間の体験とともにある。「超現実」は、あらかじめ特定することのできない未知の、そして多様な体験とともに生じる何ものかだ。予期せぬ場所で、予期せぬときに、いろいろな衝撃性、いろいろな異常さとして人の感覚に訴えかけてくる何ものかなのである。】とも。
超現実主義は、アートを通じて人間の内面と客観的な世界を結びつけ、現実と超現実の境界を模索し、その連続性を通して新たな意味や視点を提示させることにより、失われた超感覚の世界を復活させる可能性を秘めていると期待したい。失われた超感覚の世界、もしそれが取り戻せるなら、世界をもっとたのしむことができるかもしれない。
※参考「シュルレアリスムとは何か」巌谷國士(ちくま学芸文庫)、「シュルレアリスム 終わりなき革命」酒井健(中公新書)